嗅覚テレポーテーション第1話  
Love or Lies
 


鼻腔を微かにくすぐる程度の曖昧だった香りは
みるみるうちに深さを増していき、気付いた時には牧は溺れていた。
それはもう、浮上できないくらいに沈んでいた。
彼の放つその香りを、匂いを、牧は以前に・・どこかで知っていたように思う。

懐かしい、と思った。
それは遠い昔に確かに嗅いだ事のある、花の匂いだ。

乳白色で、淡い紫・・藤色の。透けそうな薄い花びらが4枚の、
牧の大きな手のひらに花の1つがちょうど収まるくらいの。
葉に茎は・・繊細で、ガラス細工のように透明で、混じり気も穢(けが)れもない緑。
触れたら身体も心も全て浄化されそうな、でも触れるのを躊躇(ためら)わせるような
高貴な雰囲気を纏った・・・不思議な花。

・・その花の香りは、簡単には言い表せない。単純ではない。
柑橘系と言えないこともない。だが、もっとオリエンタルな・・妖艶な・・・。
麝香(じゃこう)のような・・薔薇のようなフローラルでもあるような・・・。

・・そもそも、麝香、つまりムスクは男性のフェロモンの匂いであると言われるのに対し、
薔薇は女性のフェロモンの匂いだと言われている。
だがこの匂いは・・両方が結合している様だ・・中性的で・・・。

残念ながら霊長類は、嗅覚が他の動物に比べて退化してしまっている。
殊に人に至っては感度が異常に鈍く、フェロモンをほとんど自覚できない。
・・それでも牧は気付いた。この花の香りに、匂いに、誘われた。迷わず辿りついた。

その昔あの花は・・・自分を散々陶酔させて、夢中にさせた。
与えられる官能に、何度も溺れた。深く沈んだ。
不思議と不快な息苦しさはなかった。
代わりに、心臓が跳ね上がるくらいの興奮と覚醒、
とにかく早く手に入れなければいけない焦燥感が
波のように身体と思考に押し寄せて・・・
それなのにじらされて、かわされて、転がされて、たまらなかった・・・。

・・・あれは、何だったのか。
今か。昔か。
夢か、幻か、はたまた現実か。
果たしてそれは、実在したのか。

・・今時点の答えとしては、それは実在している。
昔はともかく・・・今まさに、牧はその花に直に触れているのだから。

手のひらや自分の胸板に触れるその花の体温を、牧は 冷たい と思った。
灼熱の夏の日の、母校・海南大附属高校の体育館の床を思い出させる。

冷房がついていたにも関わらず、真夏にもなればそれはほとんど意味をなさず
あまり効くこともなく・・稼働音だけやけに大袈裟だったが・・
外の方が涼しいなんて日もザラにあったように思う。

そんな室内に置いて、休憩の時、またはファウルで倒れ込んだ時・・・
床だけは、何故か不思議と熱を持つこともなく、いつでもひやりとしたままだった。
それは潔い位、何物にも左右されず、染まらない。
心地の良く。そのまま、包まれていたいくらいに。
ずっと這いつくばっていたくて、立ち上がりたくなくなるくらい。

そう。真夏にあの涼しさは救いだった。牧は、それが好きだった。
・・そしてその感覚が今、この上ないくらい近くにある。


「藤真」
その冷たい花びらの・・白く透けそうな肌の持ち主は、
牧の熱を帯びた呼び掛けに対し、瞑った長いまつ毛を僅かに震わせたが、
相変わらず瞳は堅く閉ざしたままだ。

何故こんなことになったのか定かでないが、
牧の部屋で、ベッドの中で、お互い一糸纏わぬまま。
・・・牧と藤真は今、抱き合っているのだった。

そうなったきっかけが思い出せないが、
もはやそんなもの必要でも重要でもなかった。
ただ牧は、幸せだった。

藤真の、初めて見る部分の肌も、裸も、
牧が今まで見た誰のものとも大きく違っていた。

もちろん、彼は男であるので自分と同じ身体の構造をしているはずなのだが・・・
実際、そうなのだが・・それでも、まったく自分とは違うように思う。

こんなにも白く、こんなにも冷たい。
身体は、引き締まっていて堅くもあるけれど、どこか曲線的で優しく、柔らかい。
初めて触れるシルクのように滑らかな手触りは、どこもかしこも毛穴1つないかのようだ。
すべてに頬ずりしたくなる。
そして、すべてを踏み荒らしたい。暴きたい。
新雪はすべて自分のものだとはしゃいだ幼い頃の真冬の雪の日のように、足跡を残したい。
こんな感覚は、今までそう多くは知らない中の
身体接触のあった女性たちに対しても、一度も感じたことは無かった。

しばらく牧は芸術品でも観賞するかのように
薄明かりの中で藤真の裸体をねめまわしていた。

「ん・・・」
ふと、抱きすくめていた藤真が、腕の中で少し息苦しそうに身じろぎした。
その身じろぎによって、彼の持つ独特の香りが、匂いが牧の鼻腔をさらに刺激した。
粘膜に、絡みつくあの妖艶な匂い。

それを合図に、牧はほどなく理性を失っていった。
・・やっと辿り着いたのだ。
逃がしたくない と、必死で縋りついた。
そして、その 冷たい花の、冷たい彼の、すべてを見たくて。
すべてを知りたくて。
すべてを奪いたくて。


息もつけないくらい、つかせないくらいの口づけを浴びせながら、
性感帯と思われる部分を激しくまさぐった。

「う・・・ううっ・・ん」

口づけを振りほどけなくて、息苦しいのだろう。
藤真は酸素を求めて、何とか牧を振りほどこうとする。
だが、牧はそれを許さない。ますます深く、藤真に口づける。

「んん・・・あ・・んっ」

抗議の声にならない声を上げる藤真が、涙で潤んだ薄目を開ける。
それも、牧にとって何の抵抗にもならない。
むしろ、次なる行為へ誘う、扇情的な表情に思えてならない。

誰も足を踏み入れていない新雪を、独り占めしたい。侵略したい。
そう、可愛く言えば悪戯心のような――大袈裟に言えば、独占欲ー支配欲のような――。
「藤真・・・藤真っ」
耳たぶに口をつけて、唸るように、絞り出すように、囁く。
穴の中に下を差し入れる。舌先が鼓膜まで届かないのが、もどかしい。
そうしていると藤真の頬が、首筋が、耳たぶがさっと紅潮した。滑らかな肌が、一気に粟立つ。

一方牧は、自分が発したものなのに、自分自身の声にどこかで驚いていた。
・・今まで、こんな風に切なく何かを呼び求めたことがあっただろうか?
まるで、すがりつく様な。子どもが母親に、ねだる様な。甘える様な。ぐずる様な。
本能では、こんなに藤真のことを求めていたのに、
どうして今まで気付かなかったのだろう――?
もしかして俺は・・どこかで気付いていて・・ずっと、気付かない、フリをしていたのか――?


・・藤真の肌は、牧の手や身体に恐ろしく馴染んだ。逆に、それを少し奇妙に感じるくらいに。
普段はどんな相手とするときも――そういう行為を初めてするとき――違和感というか、
リズムというか、勝手がわからなくて――それも最初の1、2回だけれども・・・戸惑うはずが。

だが、彼は違った。
明らかに彼を抱くのは初めてなのに、
それどころか同性と性交渉をするのは初めてなのに。
吸いつくくらいの一体感。この上ないくらいビビッドで新鮮な五感。
ずっと昔に何度も交わったことがあるような、懐かしい様な・・・
真新しい刺激と、馴染みある安心感。
牧は何故か、相反するはずのその両方を感じていた。
まるで・・・まるで、藤真は自分の身体や精神の一部であるような感覚。
長らくその事実を忘れていて、今やっと、そのことに気付いたような。
夢から醒めたような。否、夢の中の出来事のような。
・・こんな感覚は、生まれて初めてだ。

牧は、その感覚にとことん陶酔した。
すでに同性だからとか、道徳的なこととかは頭から綺麗に抜け落ちていた。
ただ、本能で思うがままに藤真を抱いた。

・・・こんなに差し障りなく挿入の行為がうまくいくのも逆に不自然なはずなのだが
それでも、藤真と2人ならそれが当然であるような。自然であるような。

「あ」
「藤真っ」
「・・ま き・・・」

牧のそれがすべて藤真の身体に収まると、
藤真が閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げた。
上目使いで、焦点の定まらない瞳で。

牧は、その小さな顔を両手でそっと挟んだ。
紅潮しているのに、相変わらず冷たい花びら。冷たい頬。心地良い。

藤真の微妙に外れていた焦点が、牧を捉えた。
それと同時に生理的なのか感傷的なのか、その大きな瞳から涙が絵に描いたように一筋、流れた。

その光景に、牧まで泣きそうになった。
切ない感情が一気に押し寄せて、たまらなくなった。
信じられない事に、自分は嬉しさで打ち震えていた。
こんなに自分に人恋しく思う部分があるなんて。
藤真が恋しくて、愛しくて、仕方がない。
そしてそれを埋めるには、この行為しかやはりないかのように思われた。
藤真とするそれは、今までのものとはまったく違う。
他の人間としてきたはずの数々の通過儀礼的行為が、
これ以上もこれ以下もないと思い込んでいた滑稽なこの行為が、
すべて子どもの遊びに思えてしまうくらいに・・・。

牧のその想いと自分の想いがまるで同じだととでも言うように
藤真が牧の広い肩に必死な様子でしがみついてきた。
「・・ま き・・・牧っ・・!」
・・・それからは。

ただ、2人快感を求めて逸る身体を絡め合い、駆け上がっていった。
そして、まさに精を吐き出すその時。
こみ上げてくる鮮烈な射精感とともに、今まで味わったことのない
深みを帯びた慈愛が、牧を突き動かした。
この感情を、何と言い表せばいいのか、牧にはわからない。
そう、わからないはずなのに。

「藤真」
「牧っ・・」
「藤真・・愛している」

自分の口で、はっきりそう、藤真に告げた。

そして、どちらからともなく何度目かの深い口づけを交わして・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・おい、ちょっと待て!・・・・

・・・・今、俺は何と言った・・?・・・・・・

・・・・愛して・・・愛している、だと・・・・・・・!?

一体、何を言っているんだ!!俺は!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





「・・・うっ・・・うわっっ!!!!」

自分の叫び声とともに、飛び起きた。

・・・朝。
いつもの見慣れた自分の部屋のベッドで、牧はひとりだった。


何だったんだ今のは・・・。
あんな夢を見るなんて・・・しかも!
しかもあいつを相手に・・・!

・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・
はっ!

「・・・・!う、嘘だろ・・!?」

自分のパジャマ代わりのスエットと、下着と、シーツのシミを見て愕然とした。

牧は、夢精していた。
しかも、今までの記憶にないくらい
それはそれは派手に・・・文字通り、飛び散っていた。


牧はしばらく、ショックで茫然としていた。
時間にして、CM2本分。27秒間。
・・が、突然ゴム人形のごとく跳ね上がるように起き上がり、
掛け布団・敷布団のシーツを毟り取るように、勢いよく引っぺがし始めた。

まさか自分が、こんな風になろうとは・・・
確かに、10代の中高生の時は・・
そんな卑猥な事ばかりが頭の中を渦巻いていた時もあった。
多感で猿同然の頃は・・毎日のように自慰をしても・・度々夢精もしてしまっていた・・ように思う。

だが、それなりに大人になり、
実際に付き合う女性ができて、身体接触を持つようになってからは
覚えている限りでは、そこからこのような粗相を働いたことはない。それなのに・・・

・・こんなに鮮明に、昨夜の あれ を覚えている。
夢なのか、現実なのか今でも感覚がおぼろげなくらい。

シーツを剥がし終え、スエットと下着を脱ぐと
頭が考えるのを拒否するせいなのか、また意識が遠のきそうになったがそこを何とか踏ん張り、
それらを洗濯機に叩き込み・・・、だが、また取り出し
今度はビニール袋に押し込み、口をこれでもかと言うくらいに縛り上げた。

・・このままにしておくと、これをお手伝いの掃除の峰木さんが見てしまう。
3日に1回、頼んでいるのだ。彼女は、シーツをその度に新しいものにしてくれる。
考えたことがなかったが・・何組かあって、洗濯して使い回しているのだろう・・・。
1組なくなって、困るかもしれない。何より、なくなったこと自体を不審に思うだろう。
だが・・・例えそれでも。これ以外に打開策が思いつかない。背に腹は代えられぬ。

・・・今まで家で女性とそういう行為をした後に、
ゴミ箱に使用済のゴムをそのまま捨てたことも1度や2度ではなかった。
最初は抵抗があった。でも、そのうちそれも申し訳ないくらい気にならなくなっていた。
でも今回は!これだけは!
・・今生の恥と思った。
それは、切ない罪悪感も伴なっていた。

しばらく牧は、ああでもない、こうでもないと頭を抱えて(パンツも履かずに)
檻の中のトラのごとく常同行動をし、ウロウロと同じところを行ったり来たりしていたが
ひとつ派手な溜め息をつくと洗面所に駆け込んで、冷たい水で激しく顔を洗った。
やっと、頭がクリアになってくる。
触れる水が、とても・・・冷たい。

・・冷たい花。
・・冷たい肌。
藤真の肌・・・。

「いかん・・・いかんっっ!!もう忘れるんだ!!」

牧は、声に出して大きくかぶりを振った。
その声は、情けなく裏返っていた。

(申し訳ないが、このシーツと服は出勤途中のコンビニに捨てさせてもらおう)
・・そう、けしからんことを誓う、朝から情けなく一人相撲の帝王・牧なのであった。



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良い子の皆さんは、コンビニのゴミ箱にそんなものを捨ててはいけません・・・。
始まりから夢オチで牧さんごめんなさい ですが、始まりました牧藤祭り2013!!

ここから約1カ月間、この続きを9連発書いて行きたいと思っているので
皆さん気長にお付き合いくださいますと幸いです!!

兎に角、今日の日を無事に迎えられ、こうしてお祝いできることを非常に嬉しく思います。
では、2013年4月4日木曜日。牧×藤。開幕です!!
これはもう、燃え尽きるまで。

BGMはcapsuleの Love or Lies で決まり!!

(2013.04.04)

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