2013年6月4日火曜日18:58
@海南大学 軽音楽部 地下スタジオ B04前
藤真健司
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「”にげ”?」
俺は、スマートフォンが表示する不可解な2文字を呟いた。
もう9年近くも一緒に住んでいる恋人からの、奇妙なメール。
受信時間は18:04だから、ざっと今から1時間前だ。
”にげ” と一言。
これは一体、何だろう。
この2文字で単語だとか動詞だとかいうことはないだろうから、続くのは恐らく・・
にげ・・る、にげ・・て、にげ・・た・・
”逃げた”・・・?
単純な連想ゲームで思い当たった言葉に、はっとする。
もしかして、自宅マンションで飼っている
メスのペルシャ猫のアオが、逃げ出したのかと思ったから。
・・地下スタジオは電波がほとんどないので、
急いで1Fまで出て、メールの送り主である仙道に電話をかける・・・
が、繋がらない。
俺はイライラして、檻に入れられたトラのように周りをうろうろした。
何故電話に出ない・・・。
『藤真さんは、いつも携帯を携帯しないよね』
あいつが頻繁に投げかけてくるセリフを思い出して、舌打ちした。
おまえだってそうだろうが・・肝心な時に限って。
・・もとはと言えば、今日だって最初に電話に出なかったのは、俺だったが。
元来俺は、携帯に無頓着で忘れて外出してしまう時も多々あるし、
もちろんメール返信もマメではなく、不精なのだ。
今日はついさっき仕事場から直接このスタジオまで来て、
扉の前で本日初めて、携帯を確認した。
・・すると恋人である仙道から鬼のように着信が入ってたから・・・驚いた。
鞄に入れて移動中であったので、まったく気付かなかった。
そして、電話が繋がらないので彼は手段を変えてメールを選び・・
”にげ”の一言を俺に伝えてきた・・・らしい、が。
”にげ” ってなんだ。”にげ”って。
あと一文字が打てないくらい?
漢字変換もできないくらい?
主語も付けられないくらい?
・・・そのくらい、切羽詰まった状況なのであろうか?
彼女の、宝石のようなエメラルドグリーンの瞳を思い出す。
まさか、本当にアオが??脱走を?
・・その時、視線の端の方で煌めくものがあった。
紫陽花の、ムラサキ色の花だった。
――これは、俺が現役の海南生の頃からあった。
その美しさに魅せられて、俺は落ち着きを取り戻した。
紫陽花は、不思議だ。
昔、新聞かテレビかで知ったのだが
土壌(酸性かアルカリ性か)や天候に左右されて、花の色が異なるらしい。
しかも、1度咲いた花も開花から日を経るに従って、色が変化する。
その性質のためなのであろう、紫陽花の花言葉は
”移り気”、”高慢”、”あなたは美しいが冷淡だ”、”無情”、”変節”と、ロクなものがない。
紫陽花の元の花は青色で、赤色は人が作りだした色。
でも、いざ本来の青い色を咲かせようと人が手を出しても
なかなか言う事を聞かない、思うようにならない、”外柔内剛”の花だと――。
つまり”外見は穏やかで優しげだが、心・芯は強い”。そんな花であると。
そう、紫陽花はとても強い花。葉には、毒まである。
多くの植物がきらう酸性の土に強く、植物毒とも言われるアルミニウムも
平気で吸収して、花の色付けにちゃっかり利用してしまう。
・・・仙道と去年の今頃訪れた鎌倉・長谷寺の斜面にも、溢れんばかりに咲き乱れていた。
紫陽花は根がとても強いので、斜面に植えると土砂崩れを防ぐそうだ。
俺は、そんな”外柔内剛”の紫陽花が好きだった。
・・アオのことは(であるかもわからないが)心配ではある・・確かに・・・だけど。
持ち前のプラス思考というか、面倒くさがりを発揮して
俺は、それについての思考回路をひとまずシャットダウンした。
だって、これ以上考えたって埒が明かない。
与えられている情報がこの平仮名二文字という不親切な状況では、
どうにも事態解らないのだから。
・・だいたい、今までにだってこの恋人は
何のスイッチが入るのか・・度々
こういう訳のわからないメールをしてくることがあった。
そうだ、最近の一番呆れたのと言えば・・こんなのがあった。
『藤真さんって、俺と親父とどっちが好きなの?』
・・これは、かなりの傑作だった。
仙道は、自分の親父に妬いたのだ。真剣に。
俺から見れば自分の会社・・・仙道工務店の社長である、あいつの親父に。
親父さんは世間を完全に達観していて
(息子の仙道にも歳の割にそういうところがあるが)
革新的なのに、とにかく安定感・包容力のある人で。
その事実に俺も他の社員・役員たちも、どれだけ安心させられているか解らない。
・・まだ三十路にもならず、社会人経験も短いヒヨッコの息子・彰が、
百戦錬磨の余裕を持った彼と競おうとするところが、すでに間違っている。
それに猫のアオだが、彼女は今まで1度もマンションの部屋から出たことがない。
出さなかったというよりは、臆病故にまったく外に出たがらなかったのだ。
そんな彼女だから・・無理矢理外に出さない限り、逃げるようなことはないと思った。
だが。
そうするといよいよメールの”にげ”の二文字が解らない。
しかし・・今の状況で解らないものは、解らないのだ。
今夜帰って、あの厄介な恋人を問い詰めれば判明することである。
(あいつ・・・もしこれが何かの冗談なら、ぶっ飛ばしてやる)
とにかく今は・・・目先のバンド演奏を何とかしないといけない。
目標の6月末・半月さんの2次会までに全体練習は3回。
OBということで、海南大学の地下スタジオ、B04を借りることができたのはラッキーだ。
それでも、懐かしさにばかり浸ってはいられない。
そして地下のスタジオに戻ろうとした時
また、携帯が鳴った。メールを受信したのだ。
仙道か? と思って見ると・・・清田からだった。
『今夜、何時でも良いので時間作れませんか?
直接会って、2人だけでお話したいことがあります』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
・・・どうやら今夜――6月4日は奇妙なメールが飛び交う夜らしい。
「時間あるか・・・って、今から会うだろ。すでに遅刻だけど」
俺は思わず清田がそこにいるかのように心の声を口にした。
まったく、おかしな言い回しだ。
今から練習で会うのだから、このメールの文面には少なからず違和感がある。
だが・・・行動に頭を悩ませる前に、まずはその相手を考慮しなければならない。
相手が他ならぬ、清田なのだから。
・・清田のメールは普段から、ここまでとはいかなくても
ヘンテコな日本語が使用されていることが多々ある。怪しい敬語もあったりする。
そのくせ、彼は電話派よりもメール派なので厄介だ。
(曲の歌詞を書く時の練習になるとか何とか、言っていた気がする)
今回のこのメールを・・
単に、練習の後に話したいことがあるだけだ、と俺は片づけた。
こんなメールしている暇があったら、少しでも早くスタジオに来ればいいのに、と。
しかし、練習の場で直接俺に声をかけられないと言う事は・・・
”お話したいこと”とは今日、
練習で8年ぶりに再会するもう1人のバンドマンの事かもしれなかった。
そう・・・B04のベーシスト、神宗一郎だ。
久しぶりに会う神の事を思うと・・俺は知らず知らずのうちに少し緊張していた。
何十年振りかに初恋の人に同窓会で会う機会があったら・・・こんな感じなのかも。
そんな考えがふと頭をよぎって、1人、少し笑う。
・・それにしても、すでに練習開始時間を周った19時だというのに
神も清田も、一向に姿を見せる気配がない。
だが、これはかえって好都合だ。
この隙に、ちょっと練習しよう。
俺は、地下への階段を下りた。
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ドラムを叩くのは、ざっと1年ぶりだった。
1年前に・・・会社の連中でジャズバーに飲みに行った時に・・
そこは、アマチュアのバンドが終始自由に、ステージで演奏しているのだが
”昔やっていたよ” と言ったら ”じゃあ、今から叩いてよ テキトーで良いから” となった。
ああいった時、ドラムは他のパートより断然楽だ。
コードがどうとか、キーがどうとか、歌詞がどうとか言ったことがない。
テンポと、曲調だけ。その単純明快さが好きだ。
何年も叩いていなかったので不安はあったが・・・
その不安も違和感も、演奏しだしてものの数分で消えた。
最初のセッティング、チューニングの時点でもう、俺はワクワクし始めていたんだから。
そしてその延長に当たり前に乗っかるように・・
久しぶりの演奏は、とても楽しかった。
今度の2次会でも、自分が楽しんで、メンバーが楽しんで
あとはお客さんと主役が楽しんで、喜んでくれればそれで万々歳だと思っている。
小技が繰り出される難しいテクニックのいるフレーズを
短い時間で今さらどうにかする考えは、頭からなかった。
付け焼刃すらいらない。自分が叩きたいように、感情のまま叩くだけだ。
そして何よりも・・・神。
学生時代、B04が活動したのはほんの数カ月で
それ故に神とタッグを組んだのも、その数カ月に限られたけれど・・・
今も昔も、俺は神ほど素晴らしく、自分と相性の合うベーシストを知らない。
彼ともう1度演奏できるのが、純粋に嬉しくてたまらない。
そしてあとは清田の、メジャーデビューしてさらに進化した、
人を惹き付ける声と、メロディアスなギターリフがそこに乗っかれば・・・!
2次会での演奏は、きっと相当なものになるに違いない。
・・スタミナが、昔よりなくなっているかと思いきや
社会人になって建設現場、製図で徹夜・・・で鍛えられたのか
激しい曲を叩いても身体はまったく疲れる様子がなく、俺は俺自身に、少し感動する。
話を引き受けた時は、楽しみもあったけれど、それより不安が勝っていた・・・
でも。
これなら、問題なさそうだ。
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・・・課題曲を一通り演奏し、ほっと一息ついて壁に掛けられている時計を見ると
すでに19:20を過ぎていた。
少し、訝しむ。
学生時代・・・清田はともかく(こんな言い方したらあいつは怒るだろうが、本当のことだ)
神は時間に遅れてくるような人間ではなかったはずだ。
仕事が、長引いているのかもしれない。
もっとも、神は今も海外で生活していると噂で聞いていたので
こっちに来ても仕事を続けているのか、それとも今は単なる長期休暇中なのかといったことは
何一つ、わからないのだが。
携帯を見るが、着信もメールも何一つない。
電波がほとんどない地下スタジオでは、通じないだけかもしれないが。
外の自動販売機で飲み物を買うついでに2人に連絡して見よう・・・
そう思い、俺はドラムセットの丸椅子から立ち上がった。
その時、俺の視野にふと、ノートが飛び込んできた。
それはどでかいマーシャルのベースアンプの上に無造作に置かれていて・・
1・・2・・3、全部で6冊もあった。
「これ・・・?」
よく巷で見かけるものではない。
外国製のような、洒落たノートだ。
このノートを、俺は以前にもどこかで見たことがある気がした。
雑貨屋で?文房具屋で?
・・・違う。
誰かが、これと同じものを使っていた。
ただ・・・それが誰だったかが、思い出せない。
俺は、そのノート山の一番上のものを手に取り、
1ページ目を他意もなくめくった・・・。
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手元のノートに釘付けになっていた俺は
自分がいるB04スタジオの・・
防音扉の閉まる、大袈裟な音で現実に引き戻された。
・・・俺は今、ドアに対して背中を向けている。
そしてたった今誰かが、この部屋に入って来たのだ。
でも、恐ろしくて振り向けない。
誰が来たか・・つまり、
”どっちが来たか”。
確率は2分の1だ。
これは、きっと・・天国と地獄を分ける2分の1。
だが・・信じたくないが・・・恐らく・・・来たのがそのどちらなのか、
すでに本能と顕在意識の両方で、俺は解ってしまっている。
だから・・・こんなに蒸し暑いこの地下室でも、
信じられないほどに、鳥肌が収まらないのだ。
「藤真さん」
背後から、テノールの優しい声がした。
この声の波長には、振動には、聞き覚えがある。
懐かしい響きさえする。
俺は首を、古びた人形のようにぎこちなく ぎ ぎ ぎ・・・ と後ろに動かした。
・・そのようにしか、動かなかったのだ。
身体も心も、ショック状態。麻痺してしまっていた。
そうして振り返った先には、やはり・・・
思った通りの人物が。
「久しぶり」
オレンジのヘッドフォンを片耳外した状態で
キュッと口角を上げて、爽やかに微笑んでいた。
「神・・・・」
自分の口から出た言葉は、
信じられないくらい乾いていた。パサパサだった。
「元気でした?」
長いまつ毛も、愛らしい瞳も、黒い短髪も、すらっとした十分すぎる長身も・・・
神は、何1つ変わっていなかった。
まるで、学生時代から時間が止まっているかのように。
「あ、ああ・・・」
「全然、変わってないですね」
「・・それは・・・おまえも・・・」
「えっ?そうかな?
少しは大人っぽくなったって自負してるんですけど・・残念だなぁ」
苦笑しながら、ウォークマンのヘッドフォンを外す。
「あ、これ、良かったらどうぞ。外の自販で買いました」
そして、アクエリアスのペットボトルをこっちに寄こしてくる。
「え・・・?」
「あれ?合ってるよね?藤真さん、ポカリ派じゃなくてアクエリアス派でしょ?」
「あ、ああサンキュ・・・でも何で」
「ふふふ、そんなの覚えているに決まってるじゃないですか」
神の、自然でフレンドリーな様子が逆に不気味で。
・・・何より・・・このノートが・・・。
「あの、これ・・・」
「ああ、それ」
「何、これ・・」
「中、見た?」
「あ・・」
「見たね」
このノートの内容は
とてもブラックジョークでは片づけられなかった。
もはや、俺にとっては戦慄のホラーだった。
これは、決して喜劇ではない。悲劇だ。
どう考えても正常ではない。異常だ。狂気だ。
そう、そこには信じられない事柄が綴られていたのだ。
本当に、信じられない事が!!
最初にページに・・2005年の4月に、俺たちが海南大学の地下スタジオ・・ここB04で
出逢った時のことが、まず書かれていた。
それは俺が工学部の3年次に転部して、初めて軽音楽部に来た時の事だ。
俺は当時2年だった伊藤に勧誘を受けてこの部室に来て・・・
そして勧められるがままに地下スタジオB04へ赴き
ドラムを叩いて・・・部員が何人もそれを見学に来た。
その中に・・・神もいた。
それは覚えている。それは、事実だ。
だが!!このノートには。
そこで、その初めての俺たちの出逢いの時に
俺が!!俺が神に一目惚れをしたと!!!!!
・・・そう、書かれていた。
もちろん、これは事実ではない。虚構だ。
・・・このノートは全てに渡って日記のように
まるで事実であるように、ある日の出来事が書かれているけれど
本人の俺が見れば、それはすぐに解ることだったが
・・滑稽なくらいに、悲しくなるくらいに・・それはすべてがデタラメだった。
これらを書いたのはもちろん俺ではない。
それでは、誰が書いたのか?
この美しく”いかにもお習字を習ってました”の文字を書く男を、俺は知っている。
女爪!
長い指!
細い腕!
ベースを持つと青白い血管がいっぱい浮き上がる・・・!!
・・・そう、
俺の目の前でたった今、微笑んでいる
神宗一郎、その男だった・・・。
ノートは、第3者から見れば男性同士の、陳腐な恋愛小説にしか・・・だが
当事者の俺から見れば・・・全てが圧倒的に、狂気の詰め合わせで成り立っていた。
先に進むにつれ、書かれている日付もどんどん進み・・・
俺と神は1冊目の半ばには、もう恋人同士になっていた。
話はどれも・・・すべて一人称で書かれているようで
語り手は俺か、清田か、神自身。
途中、仙道が邪魔者として登場するものもあったし、
清田の悪友の土屋が横恋慕をしようとするものや、
神の元・恋人の半月さんが俺をいじめている描写のものもあった。
・・・おかしなことをするものだと、想像力が豊かなんだなと、
笑えれば良かったのかもしれない。だが。
笑ってしまう事など、俺には少しもできなかった。
それどころか読む途中で吐き気をもよおし、その場にへたり込みそうになった。
物語は神が現実では留学してしまった2005年の後期以降も続いていて・・・
俺が4年次になり、就職しても・・・!!!???
・・・こんなもの、とてもじゃないが全部は読めなかった。
目も当てられない程、
神と俺が激しいセックスをしている描写のものもあるのだから!
だが・・・最後だけは確認しておかなければならない気がした。
この一連の話の・・地獄の終わりの確認を。
・・俺は震える手を何とか諫めて、最後の6冊目をさぐる。
身体が全然言う事をきかなくて、ノートがすべて床に落ちた。
何とか拾い上げた最後のノートの
最後のページには、こう書かれていた。
『ここまで、ちょっと長かったね。
でも、もう大丈夫。
藤真さん。これは鍵だよ。
これであなたも、その箱を出られるよ。
さぁ、本当のパーティーはこれから』
******************************
「見る気・・、なかったんだけど・・・」
「でも、見た」
「・・ああ・・」
「それで良いです」
「え」
「藤真さん、最後のページもちゃんと見ました?」
「あ・・・」
「見たね・・俺はこう書いたんだ、”これは鍵だよ”って」
「鍵・・って?」
「意味、解りません?」
「解らない、何が・・・?」
「古い箱の、ドアの鍵。俺が開けてあげる」
「箱?」
「今日、俺に会うまでであなたの人生の
ひとつのフェーズが終わったって、思ってくれればいいから」
「”フェーズが、終わった”?」
「ええ。ここからがあなたの本当の人生の始まりだよ。
マヤ暦だって、2012年12月に終わったでしょ。
・・これから、人類は、あなたは、もっと良くなるんだ」
何かが引っかかる。
”箱”という言葉だ。
・・・そうだ!!先週の、半月さんの話・・・!!
”この池の鯉は可哀想だ。この中の世界しか知らないなんて”
”池というこの箱から出してあげなきゃ”
”箱”
神は、確かにそう言ったと・・・・・!!!
「・・・!?おまえっ・・・!4号館前の池の・・・」
「あ、気付きました?あの鯉解放したの、俺です。
相模川まで連れて行くの、本当に大変だったんですから」
「何で、そんなこと・・・!!」
「だって、可哀想じゃないですか。外の世界を知らずに死んでいくなんて」
「そんな・・無責任に外に連れ出して・・!人に飼われていたものが
突然自然で生きていけるかなんて、わからないだろ・・
水が合わないかもしれないし・・第一出たがっていたかどうかもわからないのに・・・!」
「そうだね、鯉に聞いてみないと出たがっていたかなんて、わからないですよね。
でもね、これが動物でも人間でも・・恐らく出たがることすらしないんです」
「・・・?じゃあ、尚更・・連れ出す必要なんて・・ないだろ」
「それは違います。彼らには”ここではない世界”が理解できないんですよ。
自分たちの生きることができる世界が、他にも存在する事に気付かない。
自分は、今いる箱の中でしか、その加護の元で甘んじるしか生きていけないと思っている。
だから、他のどこかに行きたいって考えも、希望も湧かないんですよ」
「だから・・おまえが解らせてあげたと・・・?」
「その通りです」
「・・・なんてっっ・・お節介で、身勝手なんだ!・・望んでもいないのに」
「望むっていう選択肢が沸かないだけです」
「どちらにせよ、ただの押し付けだっ・・・」
「押し付けとはひどいね。俺が、その洗脳を解いてあげたのに」
「洗脳を・・解く?・・違うだろ、おまえが周りを洗脳しようとしているんだ。
おまえ自身が洗脳されているから・・そんなことするんだろ」
「面白い事言いますね。催眠状態の、藤真さんは」
「俺が催眠に・・?意味が解らない」
「考えても見て下さい。
この世界は、いつも何らかの大きな意識下にある。
世の中の価値観は誰が作ったの?世の中の人?
・・本当にそうでしょうか?多くはメディアに握られてると思いませんか?
彼らは、無意識にせよ故意にせよ、
社会を自由に踊らせている。操っているんです。
例えば流行り・・ある芸能人が この商品は素晴らしい と宣伝する。
・・・その商品を作った会社からその芸能人に、
一体いくら支払われているんでしょうね?
それから、例えば規制・・・戦争、震災・・・。
ニュースで流されている映像だけ観て、
世界中で起こっていることが全部解った気になっている人は多いよね。
でももし本当に全部そのまま現場の映像を流したら、
ご飯時にテレビ観ながら家族団欒、なんて絶対できません。
気持ち悪くてご飯なんて食べられないし、視聴者全員悪夢にうなされてしまいます」
「だったら、何だってんだよ・・」
「つまり、ここは他人に与えられた、創られた箱の中の世界なんです。
操作された情報で成り立つ世の中。そこでは人の個性も知らず知らずに作られる。
そんな催眠状態に、誰もが常に置かれているんですよ」
「”誰もが”、か・・・じゃあ・・おまえもだろ」
「もちろん、俺も。でもまだ、俺にはこの世界で生きている自覚がある。
自覚がある人間は、自分で意識して、簡単に催眠から抜け出すことが可能です。
自分の意志で住む場所を決めることもできる。
それは箱の、外と中を行き来できるってことですよ」
「ほぉ・・そりゃ立派だな・・でも、
俺は今の世界でも十分幸せなんだ。むしろ・・ここにずっといたい」
「いいえ、あなたがそんな戯言を言うのは、他を知らないからです」
「・・知る必要もない。
ここが例えおまえの言う箱の中だとしても、俺はここを出る気などない。
俺はこの箱の中でこれからも生きていく・・おまえは、違うんだろ?
入ってくるなよ。俺を、無理矢理連れ出そうとしないでくれ・・・!」
「来てもらいます、一緒に。こうして、やっと迎えに来れたんですから」
「いつ俺が迎えに来て欲しいと言った・・・?そんなもの、俺には必要ない・・!」
「困るなぁお姫様は。かぐや姫も、そうやって
まるで自分の意志はここにある、みたいに被害者ぶって泣くんだよね。
”私はここを離れたくないのだけど、月から迎えが来るの、仕方ないの”って」
「かぐや姫・・・!?何の話をしているんだ?
俺には、自我も意志も、確かにあるぞ」
「自我に意志ね・・そんなものは簡単に作り変えられる。今の俺になら」
「何だと?・・作り変える・・!?」
「だいたい、自我なんて始めから存在しないんですよ」
「そんなはず、ないだろ」
「・・じゃあ、自我って何です?心?魂?
それとも過去の積み重ねによって固有された自分?
名前は藤真健司、年齢28才、日本人、男性、ゼネコンの社員、趣味はドラム・・・
・・どれも、組織や職種といった要素を引き合いに出さなければ語れない。
どんな要素も、ただの点と点にすぎないんですよ?
その点の集合を、どう認識しているかが自我なんですか?
結局・・それ単体で語れないということは、自我なんてないも同じなのに?
まぁ、そんな脆いものでいてくれるおかげで
記憶や人間の書き換えなんて、笑っちゃうくらい簡単なんですけど」
「書き換え・・!?」
「俺から言わせればね・・世間のやつらは
意志が弱いやつが多いよ、軟弱なんだ。
俺はこの8年前、あなたとここで出逢った日からずっと
どうしたらあなたを手に入れられるのかを・・必死に考えてきた」
「・・8年間・・・ずっと・・!?冗談だろ・・!?」
「あはは、本気で驚いてるね・・あなたってそういう人だよ。
愛されていることにも気付けないくらい、無心で、鈍感だよね。
そういうところも全然変わってない。そういう、染められないところが
変わらずに好きですよ。そういう人の方が、書き換えやすいしね」
「本当にずっと・・!?出逢った時から・・ずっと・・!?」
「はい、それはもう、このノートのように、寝ても醒めてもね」
「嘘だ・・嘘だと言ってくれ」
「・・B04 の何度目かの練習の時に・・ああそうだ
あれは梅雨入り直前の6月でしたよ。
俺、あなたに悪戯しちゃって・・・ああ、俺のせいじゃないよ。あなたが誘ったも同然。
あまりに良すぎたんだよ、ベースとドラムの絡みが。
それで俺も・・・自分を押さえられなくなってね」
「悪戯・・!?」
そう言われても俺は、全く思い出せなかった。
「ああ・・そうだ、ほらここ」
神が、ノートを見せてくる。
そこの描写は、”悪戯”なんて可愛いニュアンスで
言いくるめられるものではなかった。
神が練習中、突然キレてベースを床に叩きつけ、
そして逃げようとする俺を抑えつけて・・・
くちづけを・・・うなじに・・・乳首に!!
これはもう、乱暴だ。レイプだ。
「それでね、そこを、ノブに見られちゃって」
「!!清田・・・!?」
俺は、先週末の居酒屋での清田との会話を
そこで初めて、思い出した――。
・・・「B04の練習でもさ、1度
練習でスタジオ入ったのに、酔っぱらっちゃってずっと寝てたことなかったか?」
「・・ああ!ありましたね!!あれはひどかったっすよねぇー、2時間全員で爆睡」
「しかもどうやら最初、飲んで暴れたっぽかったし」
「暴れた?」
「ほら!・・神の白いベースが」
「あ!パッシブベース!!・・あの日、ボディが欠けちゃったんすよね!?」
「B04の床にも跡がついてたから、絶対あそこへぶつけたんだよ。
でも普通に音出て良かったよな~!壊れなくて、不幸中の幸いってやつだ」
「・・・だけど神さんも俺たちも、誰もやった覚えがないっていう・・どんだけ泥酔!?」
「おまけに起きたら身体めっちゃダルいし、気持ち悪いのなんの・・
俺、普段酔う事なんてほとんどないのに、どれだけ強い酒だったんだ?」
「え?あの時のウイスキーすか?持ち込んだの、藤真さんじゃないの?」
「俺は焼酎派だから、ウイスキーなんて買わねえよ・・買ったの、おまえじゃなかったの?」
「え!?じゃあ・・・!?」
「そう、藤真さんとせっかくイイところだったのに、ノブが来ちゃうんだもんなぁ」
「おまえ・・だったのか?あの時、ウイスキーで俺たちを・・・」
「ウイスキー?・・ああ、ふふふ。
あれウイスキーなんかじゃありませんよ。ちょっとした、薬です。
その薬も、だいぶ前に問題になった宗教団体なんて
毎日信者のお弁当に混ぜてたっていうから、驚きです。
・・まぁそういうモノだから、摂取したら死んじゃう、とかじゃないから安心してください。
・・・って、藤真さんが今もこうやって元気に生きてるんだから、そんな説明いらないか」
「薬、だと・・・!?おまえってやつは・・・!」
「見て、このパッシブベース。あの時に欠けちゃって・・・
それでも、今も変わりなく音、出るんですよ」
そういって、ベースをうっとりと撫でながらこちらに見せてくる。
白いボディに・・・欠けた跡が生々しく残っている。
俺は、そうなった瞬間のことを言われても、まったく思い出せないでいるのに
あまりにも鮮明に・・・その場面が想像ができてしまっていた。
・・これはもしかして、想像ではなく記憶の欠片ではないだろうか?
こめかみの古傷が、疼き出す。
「・・清田、早く・・・」
「ああ、ノブなら今夜は来ませんよ」
「何・・!?」
「練習日が来週に変更になったって、連絡したからね」
「・・・!!おまえ・・・!?」
だから清田は、あの違和感のあるメールを送ってきたのか。
俺は自分の呑気さを呪った。
だが、今さら気付いたところで、遅すぎる。
しかし、あの時点で気付いていれば・・と、果てしない後悔をしてしまう。
「焦りましたよ8年前のあの時は。まだ計画を練ってる途中の段階だったからね。
もう少しですべて台無しになるところでした」
「俺に乱暴をしたのも・・それを清田に目撃されたのも・・
全部、おまえの妄想じゃないのか?」
むしろ、そうであって欲しい。
「いや、それは現実だよ・・ああ、でも」
神が悲しいくらい、あっさりとその甘い考えを否定する。
「でも?」
「・・そっか、そうだよね、覚えていないよね藤真さん。無理もない」
「何で・・・?」
「あなたを手に入れるには、多方面からアプローチしないといけないと思ってね。
・・・その準備のために俺、留学を決めたんですよ。
まぁ1番大きな理由は・・・とりあえず藤真さんとノブの前から姿を消すことだったんだけど」
「どういうことだ・・・?俺たちから逃げたのか・・?」
「逃げただなんて人聞きの悪い。一時避難だよ。2人の記憶が消えてるうちに。
人間ってね。すごく高性能で単純なマシーンなんだ。
だから意識下レベルでの刺激でも、大きく行動が支配されてしまう。
つまり――あのまま俺と一緒にいれば、
思い出してしまう可能性が大きくなるということだよ。
故に、”俺”という刺激をとりあえずすべて除去する必要があった。
まだ、あの時のあれは試作品だったし・・でも、まさかあんなに効くなんてね」
「試作品?何が・・・?」
何が、か、俺にも解り始めている。
でも、解りたくない。
今からでも、遅くはない。
これは、すべて悪趣味なジョークだと。手の込んだ芝居だと。
・・・すべて嘘だと、とにかく言って欲しい。
「・・起きてしまったショックな出来事を忘れるのって、大変だと思わない?」
「忘れる?」
「そう、覚えることより、忘れることは随分難しい。先生も教授も
生徒に長い英単語や難解な公式を覚えさせる方がまだ簡単。
そんなことより、トラウマを忘れさせる方がずっと厄介で、難題なんだ。
覚えられない事で傷つく人間はいても、自殺まではまず考えない。
でも忘れられない事は、人を追い詰める。
一体今までに何人、過去から逃れられなくて自ら命を絶ったんだろうね」
「あ・・・」
「俺は、忘れる、忘させる方法をたくさん習得しました。
これは善玉な記憶も、悪玉な記憶も両方ね。
認知心理学、脳科学、それに薬学・・・
色んな方法の良いとこ取りをね。これは非常に強力なメソッドなんです」
「何を、忘れようとした・・・?」
「決まってるでしょ。あなたのことだよ」
「俺を・・・!?」
「俺だって、最初から鉄壁の意志や心を持っていたわけじゃないから。
もし、この感情を忘れることができたら・・・どれだけ楽かって始めは思ったよ。
あなたのことを寝ても醒めても考える日々が、辛くてたまらない時もあった。
少なくとも・・あなたを忘れることは、手に入れることよりは楽だって思った。最初は」
「それで・・どうなった?」
「あははは!もう・・笑えちゃうくらいに、忘れられなかったよね!!
それどころか、どんどん鮮明になっていった!!
このノートだってね。始めは・・・忘れるために、アウトプットしてただけだから」
「”忘れるために書く”?」
「うーんとね・・例えば講義に出た時に、ノートとるでしょ?
次の会議や打ち合わせの予定を、手帳に書くし。
・・あれって、忘れる前提で書いてるんだよね。
本当はその場で覚えられればノートや手帳に書き残す必要もないからね。
書いて、一旦忘れてしまっても・・あとで見直して思い出すために、書いているんだよ。
だから、逆説的に言えば、書いたものを見直さなければ、
アウトプットだけして成果物を捨ててしまえば、
何も思い出さないはずなんですよ・・・これ、解りますよね?」
「何となく・・・」
「記憶の抽象化っていうのかな。
抽象化すれば、本来はすべて忘れられるはずなんだ。
より鮮明に書くのが良いよ。良いことも、嫌なことも。だけど・・・俺にはね、
まったく効かなかった。ノートも、つい見直してしまうしね」
「・・専門家のくせに・・」
「ええ、まんま医者の不養生で、笑っちゃうよね。
でもね・・・俺は諦めませんでした。
アプローチを変えたって言ったでしょ。視点を変えて、多方面から。
腹を括ったんですよ。何が何でも藤真さんをモノにしてやる・・・ってね」
「そんなこと・・・!!そんなに一心に思ってくれて
嬉しいけど・・・俺には俺の世界があるんだ」
「恋人もいるし?」
「そう・・・あ!!!」
「・・・気付いた?」
「・・仙道に何をした・・・!?」
「さっき、8年ぶりに会いました」
「っ・・・・おまえ!!??」
「”藤真さんの事で話がある”って会社に電話したら
勤務中なのに、すっ飛んで来ちゃうんだもんなぁ!!
あの人、専務なんでしょ?いいのかなぁ?愛されてるね、藤真さん」
・・・俺は先程の仙道からのメール 『にげ』 は
本当は 『逃げて』 と打ちたかったんだと、思い知らされた。
「仙道に・・・仙道に何をした!?」
「安心して、危害は加えてませんから。
俺はあいつの事なんて、どうでも良かったんですけど。
でもね、愛する人の”今のところ”大事な人は、
できれば傷つけちゃいけないかなぁって・・
さすがに俺にも良心ありますから」
「”いまのところ”だと!?」
「ええ。数時間後にはあなたの彼に対する認識は、簡単に逆転しているよ。
それこそ、オセロが白から黒へ変わるように・・愛は憎しみや恐怖に変わる」
「あいつに・・連絡しなきゃ・・・!」
「無駄ですよ」
「何だと・・・!?」
「彼、もうあなたのこと、好きじゃない」
「・・!?馬鹿言うな!!」
「いや、好きじゃない、っていう表現は控えめすぎるかな?
言い直します・・彼はあなたを嫌悪している かな?」
「嫌悪・・・!?」
「言ったでしょ?今の俺には”忘れさせる”技術がたくさんある。
だけど・・好意や愛情をすべて1度に忘れらせるのは、難しい。
できれば、あいつとあなたに無関係になって欲しいんだけど。
あ、・・愛の反対ってね、憎悪じゃないよ。無関心なんだ。何もないってこと。
でもね、無関心、の状態に薬で一変に全部持っていくのは難しい。
もちろん薬も使うけどね。この場合、大脳基底核を刺激してやるんです。
・・まずはマインドコントロールで愛情を方向転換、、
嫌悪や憎悪の真逆のベクトルに気持ちをシフトしておいて。
・・・それができればあとは”忘れる薬”の登場だよ。それから書き換え。
まぁ、あともう1度あいつに会って”処置”をすれば完了、かな」
「何の話をしている・・・!?”忘れる薬”だと・・?」
「俺がアメリカ行って開発した新薬なんだけど」
「・・・・あ」
俺は、数日前の居酒屋での三井の話を、完全に思い出した。
「知ってました?」
「記憶を・・記憶を消せる薬・・・」
「ご明察!」
「まさか・・まさかそれを仙道に・・・!?」
「あの薬はすごいんです。散々捕らわれてきたことでも
思い出しても何とも思わなくなって、最後には思い出すことすら忘れる。
発作のようなフラッシュバックもないし、副作用もない。
ただ、道徳観念なんだかんだで、実用には随分時間がかかりそうなんですが」
「そんなもの・・!!そんなもの
神、俺を忘れたかったおまえが・・飲めば良かったじゃないか!!」
「飲みました」
「え?」
「もちろん飲みましたけど・・・効かなかったんです」
「それなら、仙道も・・!?」
「それはありません、さっき確認したから。
・・それに今までに薬を服用した被験者の100人のうち
99人が、綺麗さっぱり特定した記憶を、長い人でも数カ月のうちに失っているんですから。
ある人は自分の子どもの事でさえも・・ある人は何十年も続いたトラウマでさえも。
それに、あなたもノブも、今でもすっかり忘れているじゃないですか」
「・・・!!??」
「あなたは俺に悪戯された事、ノブはその現場を目撃した事です」
「!?・・・・その時に、すでに・・・!?」
「8年前のあの時・・すでに試作品は出来てたんですよねぇ。
ストレスの原因になる酵素を破壊してやれば良いんだから
何て事はない、ちょっと考えれば出来ました。
・・でもその時はまだ学生だったから薬、手に入れるのに手こずったよねぇ。
それに結局、そこから精度上げるのが大変でしたよ。
一変に記憶なくすのは、細胞破壊が伴うから危険だとか副作用がどうとか、色々ね。
だから現状の薬は、急激な効きを押さえて緩やかに抑制させるように働く。
・・・それを考えたら最初に藤真さんとノブに投与したのが、1番破壊力あったなぁ!!」
「おまえ、俺たちを実験台に・・!?」
「違うよ。俺は必死だっただけだ。あなたを救うためだよ」
「そんなの信じない・・・!おまえは、破壊破壊って、神様にでもなったつもりか!?」
「神様?あはは、悪くないね・・
破壊の神と言えばシヴァ神ですよね。
でも、知ってましたか?シヴァ神は、
破壊の神と同時に創造・・再生の神なんですよ。
まず破壊しなければ、創造は生まれないんです。
8年前の俺は、破壊することはできても再生ができなかった。
でも、今の俺になら可能だ。破壊の後の創造・・再生・・つまり書き換えも!!」
「破壊?創造?再生?書き換え?・・馬鹿なことを・・・!
おまえが神様なもんか!!
おまえなんて・・・ただのマッドサイエンティストじゃないか!!」
「藤真さん・・俺は神様でも、マッドサイエンティストでもないですよ。
あなたに骨抜きにされた、哀れなただの男です。
・・あなたの前では、8年前からずっとそう。
呼び名なんてね・・自由に呼んでくれて構わないんだ。モンスターでも良い。
・・それであなたが手に入るのなら、そんなものは何でも」
「やめてくれ・・・!その薬は何故、何故おまえには効かない・・・!?」
「解りません。1番長く常用したのにね。100人のうち、いや
あなたとノブを入れて102人のうち、1人だけ失敗した・・
その失敗作が、開発者の俺だなんて」
「解らない・・・何故・・・!?」
「・・・それだけ、あなたへの想いが深かった、
本物だったと言う事に、してくれませんか?」
・・そう言って、神がゆっくり近づいて来た。
俺は破壊の、足音を聴いた気がした。
「・・分け合えないものなら誰かを傷つけたとしても奪うしかないし、
共存できないなら誰かの理想郷を壊してでも自分の理想郷立てるしかない・・・」
「い・・・嫌だ!!来るな!!」
「ねぇ藤真さん・・俺ね、もう忘れるのはやめたんですよ。とっくに諦めたんです。
俺はきっとこの先もこの感情と罪を抱えたまま、生きていくしかないんです。
覚悟は随分前にしたけれど・・・これはとても苦しい選択でした。
今でも・・・たまに狂いだしそうになる時がある」
「来ないで・・くれ・・・!!」
「試してみて無理なら、仕方がないと思いませんか?
だから視点を変えて・・俺自身が無理なら、周りに忘れてもらうことにしたんです。
良いじゃないですか。あなたは今までその狭い世界の中で、
俺のいない世界で8年間、好きに生きてきたんでしょ?
これからの人生は、俺にください。
悪い様にはしません・・・今までよりずっと良い想いをさせてあげる」
「どうして?どうして?どうして俺なの・・・??もう許して・・・!!」
「どうして藤真さん・・なんだろうね。
あなたの全部を・・不完全さをそのまま愛してます」
「不完全?・・なのに・・・好きなの・・・!?」
「不完全さが、完璧なんですよ。Oasisだって歌ってるでしょ、Little By Littleで
”本当に完璧であるためには 不完全でなければいけない”って。
他人はどうせあなたのこと
よく知りもせず完璧だって言うんでしょ?
・・でも、それは違う。例えば、顔だって。
本当に良く見ないとわからないけど、あなたは右目と左目で少しだけ違う。
それは0.何ミリの世界だけど、人間の身体でミリ単位の違いは大きいよ。
右目の方がちょっと吊ってて、左目の方が目尻が下がってる。
それが、あなたのミステリアスさや危うさを、さらに匂い立たせているんですよ」
「そんなこと・・・!?」
「そんなこと、恋人にも誰にも、今まで指摘されたことないでしょ?
自分でさえ気付かないよね?でも、俺はね・・
知ってましたよ。ずっと・・・誰よりも、見てきたから」
「俺の不完全さを・・・」
「あなたの不完全さは、俺の理想だよ。
アジア的とも西洋的とも言えない、あなただけの美しさだ。
少し子どもっぽくって、何物にも染められない精神のバランスも。
そしてあなたのドラムも」
「ドラム・・・」
「あなたのドラムは俺の耳に最高ですよ。
チューニングからして良いね。少しジャズ寄りの、ロックの間を縫うような音のキレ。
繰り出す音の大小も・・・高低も音色も、リズムも!!
心地良い音楽とそうでない音楽の違いなんて、大してないんです。
本当にほんの数ヘルツで変わってしまうんです。
・・それでも、あなたは心地良い方を
俺にとっていつも最善なように繰り出してくる・・・!!」
「昔の話だっ・・・今の俺には、もう叩けない・・・!!」
「嘘を言ってはいけません。さっきもずっと、聴いてたんですよ。扉の前で。
・・・ああ!嬉しくて震えてしまう!!
俺がさっきまでウォークマンで何聴いてたか、教えてあげます。
B04 の、練習の時に録ったデモですよ。アメリカでも、毎日聴いていた。
俺とあなたのベースとドラムの絡みは、最高だ・・・!」
「毎日、毎日聴いてたのか・・!?8年前のデモを・・!?」
「ええ。でも、これからはもう、聴かなくてもよくなるね。
だって毎日一緒に演奏できるから。
8年分のくちづけして、そして毎日抱いてあげるよ。
セックス、ドラッグ、ロックンロール。
・・必要なものは全部あなたにあげる」
「ドラッグ!?頼むから・・・もうやめてくれ!!」
「ああ、そう。ドラッグ!・・俺にとってね、
あなたはドラッグそのものなんですよ。
スピード、マリファナ、コカイン・・・
きっと、そのどれもあなたには変われない!!
俺の脳の扁桃核が、藤真さんに出逢った時から
異常に反応してしまったんですよ。
これはもう、身体が覚えているって状態です。
薬物依存者がハマるパターンだね。
ドラッグや嗜好品、あらゆる体験が嗜癖を生むには条件があるんです。
どれだけ”急に刺激できるか”だよ。
刺激が急である程、人は絶頂感を得るんだ。
・・そして同じ体験を繰り返したくなる。
あなたは俺の快感中枢を、出逢った日のものの0.何秒で刺激した!!
あなたが俺を見ているとき、喋っている時、
演奏している時・・本当に最高だったな。
離れてしまうとすぐに、毎日思ってた・・
”次はいつあなたに逢えるのか”って・・
これって、クスリをキメたがってる中毒者と、一緒だよねぇ?ふふふ」
「・・・そんなの、知らない!!俺はおまえのクスリにはなれない!!」
「そうだね、クスリじゃないかも。
毒、なのかも。でも、もうどちらでも良いんです。
あなたは俺にとって、セックス、ドラッグ、ロックンロール。それだけで」
「お・・俺はそんなんじゃない!!そんな・・淫乱じゃない!!」
「あなたは、淫乱だよ。そんな自分に気付いてないだけだ。
ひどいよねぇ。これだけ、俺をその気にさせて、
誘っておいて。これはあなたの罪だよ」
「誘ってなんてない・・・ううう・・・」
「言い訳する子には、お仕置きしないとね」
「お仕置き・・!?」
「・・・本当にね、色々考えたんだけど、もうこの手しか残ってない。
最初は俺・・遺伝子の研究してたから、
あなたのクローンを作ろうって本気で考えたこともあったんですよ。
・・でも、クローンって外見が一緒でも性格や能力は
成長過程の環境や人間関係で変わってしまうじゃないですか。
俺としたことが、肝心なこと忘れてたんですよ・・
だって俺、ドラムは教えられないから!!
ふふふ・・・あっはっはっはっはっはっは!!!」
「!!・・神・・・・・!!やめてくれっ・・・!!」
「藤真さん・・ずっと一緒にいようね。朝まで踊り明かそう。
あ、知ってました?シヴァ神は踊りの神様でもあるんですよ。
彼の踊りは宇宙のリズムであり、1度世界を滅ぼし、
素晴らしい再生へと導いていくんです。
そんな踊りを、俺たちも踊り続けましょうよ!!」
「やめっ・・・!!やめてくれっ・・・頼むから・・・!!!」
「怖がらなくていいんです、”鍵”なんですからこのノートは。
あなたが次に目を開ける時には、今まで入ってた狭い箱のドアから出てるから」
「嫌ぁあああ!!やめろぉぉお!!」
「大丈夫・・・ちょっと記憶を書き換えるだけだから、ね」
「記憶を書き換えた俺なんて、俺じゃない!!!!!!」
「安心して・・パソコンに例えればメモリをね、
ちょっと削除したり上書きしたりするだけだから。
CPUである脳みそも、外部装置であるあなたのその外見も、全部そのままだからね。
ちゃんとロックンロールのドラムも叩けるよ。
・・そしてあいつじゃなく、俺のことを愛することができるよ」
「誰か・・・誰か助けてええぇええ!!せ、仙道・・・っ仙道ぉおお!!」
俺の口からあいつの名前が出たのに激昂したように
神の顔が恐ろしく歪められた。
そして。
次の瞬間には、俺はスタジオの床に叩きつけられていた。
「!!!!!!!!!!!」
肩甲骨がモロに硬質な床に当たって、俺は悲鳴を上げたかったのに
あまりにそれが痛すぎて、声にならなかった。
呼吸が、一瞬止まる。
すぐ近くにある、白のパッシブベース。
こいつも、8年前に、こんな風に床に叩きつけられて?
そして・・・ついに俺の番が来たのだ。
・・・8年後の今、破壊されるのは、俺だ。
「汚い言葉を使う子には、お仕置きですよ」
優しい口調でそう言って馬乗りになってきた神は
いつもの穏やかな笑顔に戻っていたけれど
その、瞳が。
なんて寂しそうで、凶悪で・・・
それなのに、どこまでも優しそうで・・無垢に縋る子どもの様な・・
生きているのに、死んでいる様な・・・
そう、きっとブラックホールはこんな風・・・。
「・・正直ね、俺とあなたと、どちらが箱に入っているのかとか、
何が正義で何が悪かとか、もう、俺解らないんですよ。
解ろうともしていない。どうでも良い・・興味が無いんです。
ただあなたがそこにいさえしてくれれば、俺はどんな罪とでも心中しますよ。
藤真さん、あなたは、俺のものだ。俺だけの・・・」
「やめて・・・神!!!お願いだ・・・元の優しかったおまえに戻ってくれ・・!」
「俺、あなたから見て優しかったですか?それなら、それで良い。
どうでも良い。ただ、8年前あなたに逢ったあの日から、
俺はあなたが好きなだけです・・」
「神・・・無理だよ・・・やめてくれ・・・!!」
「・・・今からリセットされるあなたの8年間の記憶が
全部、このノートの内容に置き換わる時が来ました!!
このノートこそが、あなたの8年間の真実になる!!」
さあ!!このカプセルを飲んでください。
あまり俺に手荒な事、させないで・・・」
「嫌だぁぁぁあああああ!!やめてくれええぇえ!!」
「大丈夫・・・泣かないで・・怖くないから・・・・・」
神がカプセルを口に含んで、アクエリアスも・・
口移しで、俺に飲ませようとしてくる。
俺は・・神に噛みついてしまえれば、舌を噛み切ってしまえれば、と思うのに
恐怖で・・それができない・・。
だから、神のくちびるが段々近づいて来るのを、
俺はまるで映画でも観るかのように、ただ、待っていた。
そして。
ついに与えられたくちづけは、
純粋とも、卑猥とも、どちらとも呼べた。
彼の口内は生温かく。
吸いつく唇は燃える様。
2人の唾液と共に・・・
大きめのカプセルが俺の喉を、
いくらかの違和感を孕んで通過していく。
・・・うっすら目を開けると
そこにはうっとりとした神の顔があった。
「ずっと、この時を待っていたんです。
8年前、あなたにここ、B04で出逢った時からずっと・・・
ひたすら試行錯誤して、耐え忍んで・・・ただ、この時機を待っていた」
俺の目尻を、繊細な親指で優しく拭っている。
・・どうやら、俺は泣いているらしい。
不思議と俺は、さっきまでの恐怖をもう感じていなかった。
神に対する、嫌悪感も沸かない。
それどころか・・・?
「藤真さん・・良い子ですね・・そう・・・・、
さぁ・・俺の目を見て・・・そしてゆっくり目を閉じて・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
頬に、まぶたに。
神の指が這う感覚が心地良い。
くちづけが、あらゆるところに降ってくる。
・・閉じた俺のまぶたの裏で、何かが煌めいた。
「ムラサキ・・の・紫陽花・・・」
そう、さっきクラブハウスの入り口で観た、ムラサキの紫陽花だった。
「・・綺麗ですよね、8年前のままでしたね。今年も、咲いたんだ・・・」
神も、観てたのか・・・・。
「”あな たは美しいが・・・冷淡・・だ”・・・・」
俺は、朦朧とする頭にふと浮かんだ花言葉を、切れ切れに口にした。
・・紫陽花って、誰かを連想させると、ずっと思ってた。
でも、その誰かが、思い出せそうで思い出せなかった。ずっと。
だけど今、やっと思い出した。
ムラサキの紫陽花・・・
それは神、おまえだ。
「藤真さん、それは正解だけど、間違いですよ。
紫陽花の花言葉には、こんなものもある。”辛抱強い愛情”・・・」
「”辛・・・抱・・い愛”・・・?」
何だそれ。
やっぱり、紫陽花って不思議な花。
”外柔内剛”で、冷淡なのに、深い愛情もあるなんて。
そんなにたくさん顔を持って、何に使うんだろうか?
・・・神、おまえはそれを、うまく使えてるのか?
「俺、ずっと辛抱強い愛情を持って、ここまで来たんです・・
だから大丈夫・・全部俺に任せて・・・
あなたは俺の手にかかって、1度綺麗に壊されて
俺を愛することができるように・・再生されるんだから・・
さらに、さらに素晴らしく生まれ変わるんだから・・」
「・・・さ・・再・・生・・・」
「そう、再生、変化です。
紫陽花のように、色を変えましょう。
紫陽花は、植えられる場所が変われば同じ株でも色を変えるんです。
だからあなたも・・ほら、青色から、鮮やかなムラサキ色に」
「・・ム ラサキ、に・・・」
「そう、ムラサキに・・・
俺の色に染まって・・俺の手の中で踊り続けて・・」
「・・手の 中・・・」
おまえは、滅茶苦茶だ。
だって散々、無理矢理箱から連れ出してやると言っておいて、
結局手の中で踊り続けろと言う。
そんなの、箱がおまえの手に変わっただけじゃないか。
そう抗議したいのだが、うまく口が回らない。
それどころか・・・、おまえの手の中も、悪くない気がしてくる。
「藤真さん、愛してます」
「・・じ ん・・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・濁っていく意識の中で、
神の嬉しそうな声を聞いた気がした。
「さぁ、パーティーはこれから」
・・まぶたの裏で、無数のムラサキの紫陽花が狂い咲いた。
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2013.06.24 友引
貴女もどうか、こちら側の世界に引きずり込まれませんよう。
紫陽花咲くこの季節に、切に願って。
ここまで読んでくださいましたことに、愛をこめて花束を。
ムラサキの、紫陽花の。<完>
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