リセットの日、前夜 2013年6月3日月曜日 23:58
@自室 ベッドの上
清田信長
・・・あれは一体、いつのことだったんだろう。
B04がまだ活動していた時だったから・・・
8年前の2005年・・まだ俺が大学1年の、前期だった。
そうだ・・あの日は、あの夜は、学校の地下スタジオB04で練習があった・・・。
季節は・・・あれ?いつだったかな?
うーんと・・・空気は重たく、どんよりとしていて、蒸し暑かった。
恐らく6月の始めの・・間もなく梅雨入りが発表されそうな頃だったと思う。
そう、まさに8年後の、今現在の気候のように。
「やべーよ!!40分も遅刻!!」
レポートで練習時間に遅れてやって来た狭いクラブハウスの入り口。
視界に入りこんで来た、ムラサキ色の紫陽花が外灯で浮かび上がって
少し、不気味なくらいに綺麗だった。
・・軽音楽部の部室は真っ暗で、中には誰もいなかった。
急いで、全力疾走でここまで向かう途中で
気まぐれ且つ、容赦なく降りだした雷を伴う豪雨に・・傘を持っているはずもなく。
ずぶ濡れになった俺の身体には、
重ね着したTシャツが、吸いつくように貼りついていた。
・・・電気をつけると、鈍い動作で蛍光灯が白々しく灯った。
器材を取るために中へ入る。
と、机から何かが足元へ落ちた。
1冊の、ノートだった。
「これって・・・」
表紙を見ただけで、俺はそれが誰のものか解った。
外国製だと思われるその洒落たノート。その持ち主を。
だって、当の持ち主が練習の合間にしばしば
そのノートに何かを書きこんでいるのを、俺は見て、知っていたから。
『何書いてるんすか』と尋ねたこともあった。
その問いに
『練習中気付いたこととか、決めたこととか、今度までの課題とか
・・・その日あったこととか。とにかく何でも、思いついたことを書いてるよ』
と、その人物は涼しげに答えたものだ。
俺はそのノートを拾い上げ、
深い意図もなく無意識にパラパラとめくった。
そこには好奇心や悪意なんてものは付け入る隙もなかった。
ただ、反射的にめくってしまったのだ。
だから、めくったと同時くらいに
『あ、しまった』
と思った。
これが日記なら、見てはいけない。さすがに、良心が咎(とが)める。
もしバンドの進捗についてなら、見てみたい。メンバーが思う、評価や課題が気になる。
だけど今俺は、
これが見ていい種類のものなのか
判断がつかないまま、めくってしまったわけで。
だから・・すぐに閉じるつもりだった。
なのに、できなかったのは。
目が追う、端正な文字の内容を・・・しばらくは理解できなかった。
実際、少し読んだ後も、すべて理解したわけではなかった。
それは、内容が難解だったからでも、支離滅裂だったからでもなく・・・。
とにかく次から次へと目に飛び込んで来る卑猥な言葉たちに、
テンポは良いのに、チューニングの狂った優しく滑稽な物語に。
・・・一刻も早く目をそらしたいのに、そむけたいのに、つむりたいのに
その圧倒的な引力と強制力で、俺は・・・釘付けにされた。
「何だこれ・・・・」
思わず発した自分の声が、カラカラに乾いた喉の奥深くでくぐもった。
生まれて初めての感覚。
体中の毛穴という毛穴が、全開になった気がした。
これが戦慄というものなのだと、その時の俺にはわからなかった。
脂汗が、堰を切ったように流れ始めて・・・
・・・とにかく、このままではまずい。
そう直感した俺はそのノートを掴んだまま
地下スタジオへの階段を・・転げ落ちるように降りて行った。
・・軽音学部の練習室の・・B04の扉の前まで来て。
防音の、ぶ厚い扉に耳をつける。
中では・・唸るような一定の低音が鳴り響いていた。
これはベースの音・・・ハウリングしているのだろうか?
フィードバック奏法?きっと違う。だって、不自然に長すぎる。
・・・俺は覚悟を決めて、恐る恐る扉を押しあけた。
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扉を開けてまず俺の視界に入ったのは、正面のどでかいベースアンプ。
と・・その前に無残に転がっている、
見慣れた白のパッシブベースの、見慣れない姿だった。
・・ボディが、ひどく凹んでしまっている。
どこかに、ぶつけられて・・・?
見ると、すぐ近くの床の一角がいびつにひび割れていた。
ここに、ベースの白い腹が喰い込んだのだろう。
外へ漏れ続ける耳触りな低音が、
ここから発されていることだけは、もはや疑いようが無い。
・・・そして。
視線をさらに奥へ移動させると・・
足が。
行儀良く揃えられた人の生足が、床の上に見えた。白くて細い。
そして。
背中を向けて、その上に馬乗りになっている人物が
横顔だけで、俺を振り返った。
・・俺の昔からよく知る、尊敬する人。
いつも優しい顔をして、冷静沈着な・・・。
俺は、彼に話しかけた。
「あの、一体、何して・・」
「やあノブ、遅刻だよ」
「・・あ、ごめんなさい」
「でも、思ったより早かったね。それでレポートはできたの?」
「あ、はい、何とか・・・遅れてすんません」
「レポートじゃ、仕方ないよね」
それは地獄絵のような光景だった。
そのはずなのに。
実際、そう思っているのに。
同時に何故だか、ブラックジョークみたいに、滑稽な光景に思えてきて。
理解を超えたことが起こると、
人は返って通常通りにしか対処できないのかもしれない。
こんな状況なのに、俺は普通に会話して、普通に返してしまう。
その人の声色も、いつも通り優しかったし・・尚更。
「・・どうしたんすか?何があったの?大丈夫・・・?」
俺はその人の背中越しに、床に倒れている人物を覗きこんだ。
馬乗りになられてあられもない姿のその人物は・・やはり俺の思った通りの人で。
もともと白く透けるような肌を、今はさらに青白くして気を失っていた。
「ああ・・ノブが来るまで2人で合わせてて・・・
凄かったんだよ、それは凄ぉく気持ちよくAメロが決まったんだ。
前に・・誰だったかな、ミュージシャンがインタビューで
”ライブはSEXより気持ちが良い”って答えてたんだけど
今日ばかりは、本当にそうだと思ったね・・この人との演奏は、まさにその通り」
「・・そっすか・・・」
「俺の紡ぐベースラインがこの人を絡め取って縛り付けて。
・・耳の穴を舐めまわして、鼓膜を揺さぶって呼吸を乱して。
そしてこの人が繰り出すリズムが俺の鼓動を速めて・・・
身体中をビンビンに突きあげて、脳内で大量のドーパミンを分泌させて
感じさせまくってくれるんだよ。この人との演奏は、快楽だね。もう、最高だよ」
「・・・何すか、それ・・・」
「あ、ごめんね、能書きなんて聞いてもよくわからないよね。
実際に聴かせてあげれれば1番良いんだけど・・
でも、この人感度良すぎて、この通り失神しちゃったんだよ。エロいよね」
そう言って、愛しそうに倒れている人物の額を撫でながら、微笑する。
尊敬する先輩が目の前で、もはや修復不可能な程壊れている・・・。
その事実に・・・俺は言葉が出なくなった。
その時、俺の手から・・掴んでいたノートが滑り落ちた。
「あ」
「・・ああ、それ俺の」
「知ってます・・・」
「中、見た?」
「・・・はい・・」
「そう」
何でもないことのように一言そう言うと、
その人は、ゆっくりと立ち上がって、こちらに向き直った。
その、瞳が。
なんて寂しそうで、凶悪で・・・
それなのに、どこまでも優しそうで・・無垢に縋る子どもの様な・・
生きているのに、死んでいる様な・・・
深い、底なしの暗黒。
そう、きっと、ブラックホールはこんな風・・・。
とにかく、とにかく・・・それは恐ろしくてたまらなかった。
・・俺は、思わず後ずさった。
すぐに、防音扉の取っ手が背中に当たる感触があった。
この取っ手を引け!!
そしてすぐこの場を去るんだ!!
・・・頭の中で、必死の声がする。
そうしなければいけない。そう、解っていた!
・・でも、身体が言うことを聞いてくれない。
「わざわざ持ってきてくれたんだね。ありがとう」
口角を上品に持ち上げて、その人は微笑む。
「読んで、どうだった?」
「どう・・・って・・・」
「感想だよ。良かった?」
「そんな・・・」
「ふふふ、ノブに特別に教えてあげるよ。あのね、
このノートに書いてあることは全部本当のことだよ」
「嘘・・・そんなのは、嘘っすよ」
「嘘じゃないよ」
「全部・・ただの妄想・・願望じゃないすか・・・?」
「聞きわけの悪い子だね・・ああ、じゃあこう言えば解ってもらえる?
”このノートに書いてあることは、今は違うけど、時機に真実になる”」
「”時機に”?」
「うん」
「どうやって・・」
「破壊と創造だね」
「破壊?創造?」
「具体的な方法は・・色々考えてるよ。
ただ、鯉の時よりは時間喰っちゃうの、覚悟してる」
「鯉?」
「ああ、いいや。とにかく今は
とりあえず少しの間・・今日のことを忘れててくれないかな?」
「忘れる・・・!?そんなことできるはずないじゃないすか!
俺、黙って忘れたフリできる自信なんて、全然ありません」
「そうだよね。ノブは、正直で嘘つけないもんね」
「じゃあ・・・!」
「それでも、大丈夫。俺に任せてくれれば」
「何・・・を?」
「痛くなんてしないから、こっちへおいで」
「!・・・嫌っす・・絶対・・俺・・無理っす・・」
「ノブ」
「来ないでください・・・頼むから・・・や・・やめてください!!」
「そんな聞き分けのない子には、俺、ひどいよ」
「何」
「お仕置きだ」
その人――神さんが、にこりと笑った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・そこで、目が醒めた。
俺は、ぐっしょりと汗をかいていた。
ああ、夢か。
夢で良かった。
でも、でも、
本当にこれは、果たしてただの夢だったのか?
これは現実に、過去に・・
ちょうど今と同じような気候の頃に・・・
空気は重たく、どんよりとしていて、蒸し暑かった・・・
8年前の、恐らく6月の始めの、間もなく梅雨入りが発表されそうな頃だった。
海南大学の地下スタジオの、B04で。
ボディの凹んだ、白のパッシブベース。
気を失っている、あの人。
そして着衣を乱したあの人――藤真さんに馬乗りになっている・・・!? 深い、底なしの暗黒。
そう!きっと!!ブラックホールはこんな風・・・!!!
「ぎ・・・・ぎゃああああああ―――!!!」
俺は、金縛りが解けたように叫び声を発した。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
???????
・・・何の花だか忘れたけれど、それが開花するためには朝の光だけでは足りなくて
光が当たる前の、夜の冷気と闇に包まれる時間が必須だと聞いたことがある。
そう・・・だから光だけでは駄目なんだと。夜も闇も、必要なのだと。
だけど・・・そこで咲く花は、一体何だった?そもそも、花、だったのか?
・・・闇があるから光があり、光があるから色が見えるとも。
そう、ここでも闇は必要なのだと。
だけど・・・俺はいつもここで1つの疑問にぶち当たる。
俺に見えている色と、他の人に見えている色は、果たして同じか?
光を受けて、それぞれの人間が
それぞれの2枚のレンズに目の前の現象を映し出す。
・・最終的に、脳が色に形に距離といった情報を、まとめて答えを返す。
それが視覚。それが現実だ。
だけど・・・その色や形や距離の見え方は、全員同じなのか?
・・・いや、決して同じではない。
通すレンズがそれぞれ違うし、
曇っていると知りながら、そのままのレンズで見続ける人間だって、きっといる――。
だから、
自分の把握している現実と、他人の思うそれは、きっと違う。違って当たり前。
答え合わせをしても、合わない部分は山ほど出てくる・・・
どちらが正解なのかも、最後まで解らず・・・。
そう、わざとでも、無意識でも。
自分の創りだした現実を、
本当の現実と区別できなくなっている人間だって、きっといる。
現実と願望が、光と闇が、混ざり合う。
ある人物が妄想し、創造した世界が臨界点を超え――それは
本人を、その人が愛する人物を、周りの人間を
――そう、一切を呑み込み、破壊してしまう。
・・明けない夜はないと言う。
それでも、この夜は俺にとっては気が遠くなる程長く。
・・・やっと明日、懇願した朝がやってきたとしても
その日また来る夜に、俺は脅える。
そしてもしかしたらその夜、
夜明けを待ちきれずに・・・終わりを・・・?
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開花するのに光だけではダメで、冷気と闇が必要なのは、朝顔の花です。
2013.06.21 大安 夏至。
1年で昼が一番長いこの日。
陽が極まって、陰に転ぶ転換期。
転がり落ちずに、踏みとどまれるか?
次は、約10年続いたくちづけシリーズ、ファイナルも極まり、ついにラストです。
(お手数ですが、ブラウザでお戻り願います)
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