・・・・・・水・・・・・・・・・・・・!?

「うわ〜〜〜!!水がくるーー!!」

「寿、落ち着け!!!」

「・・・・・喜々!!喜々が・・・・・!!」

水が来るなど言われても全く信じられなかったが、
藤真は玄関に繋いでいた柴犬の喜々が、真っ先に気になった。



「・・・・・・・わかってる!!ほら!!」

玄関に走ると、もう牧が喜々の鎖を解いたところだった。

屈んでいるその牧のズボンの裾を、すごい勢いで浸水してきている水が濡らしていた。

そしてガラガラ、バリン・・・・という不気味な音がして、表の扉が、家の外壁のそこら中が割れだした。
家全体からの、浸水が始まったのだ。

(外は、一面川か・・・・・・・・・・?!)
・・・・・・・・・2人とも、事態は一刻を争うと悟った。




君よ、共に。



「・・・・・・みんな屋根裏にあがるぞ!!」               

純は、冷静に、それでも腹に響くような大きな声で言い放った。


「・・・・・・・楓、ランドセル背負え!!リョータも、寿もだ!!」

そういい残すと藤真はすぐ一番北の父の部屋に走った。

猫だ。勇気と、望。


・・・・・・・・・・・と、その途中で勇気と望にすれ違った。

「おまえら・・・・・・!!」

なんて利口なんだと、逞しいんだと思った。

・・・・・彼らの口には、仔猫がくわえられていた。

・・・・・・もう、勇気に、勇気がないなんて、二度と言えない。


「藤真〜〜!!!戻って来いっっ!!」

今まで聞いたことのないような切羽詰まった大声で自分を呼ぶ、牧の声がした。

・・・・・・・・居間まで戻るうちに、ついに畳が浮いた。






・・.・そんな生きるか死ぬかの瀬戸際であるのに、
驚くべきは藤真の母・都貴子のとった行動であった。

「母さん!?なにやってんだよ、早く・・・・・・・」

なんと、仏壇の部屋で数珠片手に、父の遺影に向かって念仏を唱えだしたのだ。

頑として動こうとしない。

「健司・・・・・・私にはこの家がすべてなんだよ。父さんが・・・あの人が残してくれたこの家が。
もう私は、この家が沈むというのならば、一緒に沈む」

「何、言ってんだ!!??・・・オレ残して死ぬ気かよ、
生きてるオレより死んだ父さんの方が大事だっていうのかよ!!」

「お前はもう立派にここまで育った。私がいなくても、もう・・・・・」

「バカっっ・・・・信じられないよ!!!!」



水は驚くほどのスピードで、床上50センチはきていた。

「こんな言い合いしてる場合じゃ、ねえんだぞ!!!」

「藤真、まかせろ」

「・・・・都貴子さん、ちょっと失礼しますよ」

・・・牧と純がいて屋根裏に上げてくれなかったら、母は死んでいただろう。

2人が母の両脇を抱えて、無理やりにでも連れていってくれなければ。

・・・・・・・だが母は、悔しいのか泣いていた。





母さんが、自分以上に気丈なあの母さんが泣くのなんて、初めて見た。

「楓、オレにつかまれ!!」

藤真はまだ1番幼く背丈の小さい楓を自分の背に負ぶった。

もう、楓のあごの辺りまで水が来ていた。

「・・・・・はしご使って、上がるからな!!」


高い所が怖い??

そんなの知らねぇよ。

全員、助かるんだ。

助けるんだ。

誰も、死なせないんだ。

オレも、死なないんだ。

牧がそういった。だからぜったいそうなる。

それに、

約束を、したんだ。

牧と、これからもっと、生きるって。

もっともっと、ずっと一緒にいて、幸せになるんだって。

死にたくなんか、ないんだ。


寿とリョータは牧と純の背中に乗った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



これは、オレの家の中なのか・・・・??


ここは、この世なのか・・・・・・・・・??


信じられない、光景だ。

自分の周りがどんどん、真っ黒の水に飲まれてゆく。

どんどん、どんどん目線に近く迫ってくる。

藤真の鎖骨あたりは、もう完全に水に飲まれていた。

長身の藤真でも、ここまで埋まるほどの大水。


・・・・・・・背に負ぶった楓が、必死に自分の髪の毛を掴んでいるのを感じる。

おんぶ、というよりも肩車に近い状態だ。

もっと上に、もっと上に。その小さな手は、

強く強く、生きているという主張を感じさせて、

助けてくれと、いっているようだった。




身動きも思うようにとれない水の中だったが、

もう少しではしごにたどりつくはずの所だった。

「・・・・・・!!!・・・・・・・・くっっ」

「藤真?!・・・・・・」

「おい、どうした!!??」

左足に、激痛が走った。

何も見えない、真っ暗な夜の空間の中の、真っ黒な水の中の移動。

思わず、沈みかける。

汚い、臭い、どす黒い水をたくさん飲んだ。


「藤真!!??」

「・・・・・・・・頼・・む!!さきに楓を・・・・・!!オレは大丈夫だから・・・」





「・・・・・・どこが、大丈夫なんだ・・・・・・・??」


それから純と牧によって、藤真と楓は屋根裏に引きずり上げられた。

魚住家も、藤真家も、飼い犬も猫も、みんな無事に上に上がれた。

だが、

藤真は左の足の裏を、ひどく切っていた。

普通ならば縫わなければいけないくらいのものだ。

牧が自分の服を脱いで、水に濡れていない上の方だけ破いて、止血した。




・・・・・こんな非常事態にこんなことを思うなんておかしいが。

藤真は、自分の足を止血している牧に、父を思い出していた。

この大きな手。

傷口を押さえる強さ。

不思議と痛みは、もうほとんど感じていなかった。



「・・・・・・藤真!!大丈夫かよ??」

「おい、牧!!・・・・・・藤真、死んじゃうのか・・・・・?!」

寿とリョータが止まることなく流れ出す血を恐れながらも、心配そうに見上げてくる。

・・・・楓が、両手で腹にしがみついてきた。

「こら、楓!!」

「いいよ・・・・・・オレなら、ほんとうに大丈夫だから・・・・。
それより楓、・・・さっきは済まなかったな。ランドセル・・・・濡れたか・・・・??」

「どあほう・・・・・・・・・・・」

「まだだ・・・まだ、オレのことより・・・・・・」


・・・・・・見れば、真っ黒い水はすでに1階全体をほとんど飲み込んで、

それでも水位はだんだん上がって来ていた。






「・・・屋根を破る。このままここも水に浸かるようなら、屋根に登るぞ!!」

純が、手にしている工具で屋根をぶち破り始めた。

何度も鈍い音が響いて、何回目かで雨と風が一気にツシになだれ込んできた。

・・・・・・・・・貫通したのだ。


外の、ひどく唸っている風の音に混じって、何かが飛ばされてゆく音、
・・・・・・それに、おそらく人の声であろう、悲鳴が聞こえた。


純は自分がつくったその屋根の穴から、初めて外の世界を覗き見た。

「こ・・・・・・・・・・・れは・・・・??」





自分の家があったはずの藤真の家の右隣・・そこに家は見当たらず、代わりに舟のようなものが浮かんでいた。

・・・・・・それが舟などではなく、自分の宅の屋根だと気づくまでに、しばし時間がかかった。

藤真の家より低い魚住の家は、まさに今、屋根まで水が浸かろうとしていたのだ。



・・・・・・雨風と濁流の不気味な音に混じる、動物的な声に純ははたとなった。

『うおおお』とか、『助けて』とか、かろうじて聞こえる。人の声だ。

真っ暗な空間に、懐中電灯のような光が舞っている。


藤真の家の左隣の塚本さん宅を見やると、魚住の家と同じく、屋根が舟のように浮いている。

・・・・・・・その上に、家族が何人もいた。

塚本さんの家には、楓たちと年の変わらない子供が4人もいる。

それに門の垣根に、電柱にと、そこらじゅうに棒切れのように人が引っかかっている。

生きているのか、死んでいるのか・・・しかし。


・・・・・・・助けに、行かなければ。とっさに、思った。




その純の肩を、力強い手が掴んだ。

j甥っ子の、牧だった。

「・・・おじさん、俺も行く」

「紳一・・・・」

「助けないと」


「・・・オレも行く!」

「藤真、おまえは無理だ。まともに歩けもしないのに・・・出血だって止まっちゃいないんだぞ」

「オレの勝手だろうが!!オレは嫌だ!おまえだけに行かせるなんて・・・・・・・」

「・・・・・足手、まといだ!!」

牧が、見たこともないような剣幕で怒鳴った。

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・すまん、怒鳴って悪かった。早く、行かねば・・・・・・・・・」

「牧!!」

「藤真、俺は死なない・・・・欲深だからな。
みんな助けて、そしてまた戻ってくる」

「・・・・・・・・・・本当かよ」

「約束する、藤真。・・・・・・絶対だ、絶対戻ってくる」

「・・・・・・・・・・ぜったい、ぜったい、だな」
藤真は、半泣きで小さなこどものようにゴネた。
牧は微笑んで、藤真の頭に大きな手を置いて、くしゃくしゃっと髪の毛をかき混ぜた。

「ああ・・絶対だ。おじさん、行こう」

「おう、おまえ達・・・・・・もし私が戻ってこなければ、大と宏明の言うことをよく聞きなさい」

「父ちゃん!!??」

「・・・・・いやだ、父ちゃん!!行くな!!」

「・・・オヤジ!!」

「・・・・・・もし、と言ったろう・・・すぐ戻る。紳一行くぞ!!」

「はい!!」




「う、うおーーーーーーあああーーー!!!!!!」

・・・・・・・・純の雄叫びとともに、彼らは窓から外に飛び出していった。




牧、まき・・・・・・・・・・・・・・ぜったいだ・・・・・・・・・。

ちくしょう、ちくしょう・・・・・・・・・・・・・!!!




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




・・・・・・・・・藤真。

実は、俺はおまえが足を怪我して、よかったと思ったんだ・・・・・すまん。

だっておまえはそれがなかったら絶対に俺と一緒に外にでたろう??


おまえは、生きろ。

言っただろ。おまえは、死なせないと。俺が守ると。

足の怪我なら、大丈夫だ。

・・・・なんせ俺が止血したんだからな。

バスケだって、すぐにできるようになる。

でも、明日になってこの悪夢が収まって、舟がきたら、助けがきたら、

一番に病院にいって、見てもらえ。


・・・・・・無論、約束を忘れたわけじゃないぞ。

俺も、みんなを助けて、それでおまえのもとに帰るつもりだ。


俺自身こんなところで死ぬつもりもないし、何よりおまえとの約束が俺はこわい。

もし、破ったら、おまえにどんな目に合わされるかわかったものじゃないからな。



・・・・・・・そうだ、藤真。

ひとつ、おまえに言ってないことがあるんだ。

おまえが『もう死んでもいい』って言った、あのとき。

『俺はまだ死にたくない』と言ったが、

実は俺も、『もうこの瞬間に死んでもいい』と、そう思っていたんだ。

・・・・・・・・・そのくらい、幸せだったぞ。






藤真。


おまえだけだ。


おまえは生きろ。


・・・おかしな、不思議な話だが、


おまえが生きていることで、


おまえに触れることで、


おまえと出会ってから、


おまえと共に生きることで、俺は、


俺は・・・・・自分は生きているんだと、初めて感じられたんだ。



だから、藤真。



もし、もし俺がおまえのところに帰ってこれなかったとしても、



おまえは生きろ。



何故ならおまえは、おまえは俺の・・・・





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





「牧、ぜったい、ぜったいだ・・・・・・・・・・戻ってきてくれ」


おまえがいないオレなんて、生きちゃいないんだ。


そんなの、死んだも同じなんだ。


おまえはオレを死なせないんだろう??


だったら、だったら、


ぜったい、ぜったい。


だって、だっておまえはオレの・・・・!