『・・・・・大型の台風15号、中心の気圧は929.5ミリバール、最大瞬間風速は・・・・』


昭和34年、9月26日、土曜日。その日。

魚住家の家主、純は朝からラジオの台風情報に耳を傾けていた。






その日東海地方には、超大型の台風が接近していた。

朝から非常に蒸し暑かった。が、風は強いというほどでもない。

(嵐の前の、静けさか・・・・・・・?)


・・・・・・・・いやな、予感がしていた。



君よ、共に。


「牧〜〜・・・・」

「おお、藤真・・・」

「警報出てたんだって?こんなもう終わりがけの時間に出されてもな」

「・・・・・ああ」

もともと土曜日だったので授業は昼までであったが、

11時に気象台から発令された暴風雨警報により、学校は生徒を一斉に下校させた。



「そんな大きい台風がくるなんて、信じらんね〜な」

「嵐の前の静けさだろう・・・・きっと夜半は荒れる」

「夜か・・・じゃあ明日の小学校の運動会は中止だな。
見に行くって約束してたのに。楓たち・・・・残念がってるだろうな・・・・」

「・・・あいつら、体育だけが取り柄だからな」



そんな会話をしながら連れ立って家まで帰ると、すでに魚住家では純が
雨戸を釘・板を使って打ち付けていた。


「おじさん・・・・・・・・」

「おお牧、藤真・・・・お帰り」

「おじさん、手伝うよ」

「ああ、頼む。それから藤真。こっちが終わったら、おまえの家にも手伝いに行くからな」

「あ、すみません。お願いします・・・・・・・・」


藤真は一旦荷物を置きに自分の家に戻った。

家の中に、まだ母の都貴子の姿はなかった。

まだ、仕事なのだろうか。学校はもう終わったはずなのだが。




・・・・・急に、心細さが襲ってきた。

さっきの純の様子を思い出す。あんな純は、初めて見た。

いつも岩みたいにどしっと構えてる純が・・・何かにあせっているように見えた。



今日は、そんなに荒れるのだろうか。

工具箱を出す手が、じとっとした汗ですべる。



父さん。

オレに父さんの記憶はほとんどない。

ただ、3歳のころに庭の石で頭を切ったときに止血してくれた大きな手の、

傷口を押さえる強さを、なんとなく覚えている。

その父さんが、残した家。

大丈夫・・・だよな。




荷物を置くと、藤真も魚住家の手伝いに回った。

程なく終わって、次は藤真の家。

・・・・・風が、驚くほど、目に見えて強くなってきていた。



3人で作業をしていると、母の都貴子が帰ってきた。

どうやら帰り道で、ロウソクや懐中電灯を買い込んでいたらしい。




「・・・・・・・じゃあ都貴子さん、終わりましたので失礼しますよ」

「まぁまぁ純さん・・・すみませんでしたねぇ」

「いえ、健司君にうちの方の雨戸も手伝ってもらったし、お互い様じゃないですか」

「本当にありがとうございました。・・・・今日は、荒れますかね・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


母と純が、何やら深刻な顔をして話込んでいる。



そんなに心配するほどなのか、という気持ちと、

何故だか拭いきれない、言い表しようのない不安。





「・・・・・・・・・・藤真」

牧に声をかけられて正気に戻った。

不安に苛まれた顔を、見られたに違いない。

「ごめん、ちょっとぼーっとしちゃって。
・・・・・・母さんもおまえんとこのおじさんも、大げさなんだよな」

「大丈夫だ、藤真。おまえは死なない。死なせない」

「・・・・・・あ?なに言ってんだおまえ」

「大丈夫だから、安心しろ。おまえは、欲深だからな。ぜったい生き延びられる」

「それはお互い様だろ・・・約束したじゃねえか。
おまえが生きるだの死ぬだの口にすんなっていったんじゃなかったけか?」

「・・・・・・そうだったな」

「そうだよ」

「何だかおまえが深刻な顔してたから、つい、な。冗談だ」

「・・・・・してね〜よ。笑えない冗談言ってんなよ・・」



「おい牧!帰るぞ」

「はい、おじさん・・・・藤真、またな」

「・・・あ・・・・ああ」

牧の別れ際の笑顔で、少しほっとした。




でも。


死ぬとか、死なないとか。

そんなこと、口にするな。牧、おまえが。

笑えない冗談なんか、言うな。

そんな大変なことが、本当に起こったらどうするんだよ。

どいつもこいつも、でたらめばっかし・・・・・・・・・・・・。

でたらめなんだよ、不謹慎なんだ、

なのに。

なんなんだ、この言いようのない不安は・・・・・・・・・・・。







2時になったころだ。

魚住一家が藤真家に避難してきたのは。

魚住の家は、藤真の家より広かったが古かった。

雨戸が、家全体がガタガタいって、うるさくて家にいられないと。

いつものように働きに出た、大はまだ帰っていなかった。

次男の宏明は、足を悪くして3日前から市内の病院に入院している。


寿、リョータ、楓は3人とも黒のランドセルを背負っていた。

当時は学校が1番、ランドセルは貴重品、だったから。

3人とも言ってもまったく勉強なんてしないくせに、中にびっしり教科書をつめて。

・・きっと、純が持たせたに違いなかった。


楓は藤真の姿を見るなり、無言で抱きついてきた。

「楓・・・・大丈夫だ、大丈夫だから、中に入れ」

抱きしめ返した体が震えている気がしたが、
もしかすると、震えていたのは藤真のほうだったかもしれない。







4時。

工場は、台風ために早めの解散となった。


大は、職場仲間とおもてに出て驚いた。

ありえないくらいの強風だった。

路上のゴミやら木片やら、ブリキのトタン板やらが、自分の頭くらいの高さで舞っている。

恐ろしくて、外なんて歩けたものじゃない。

みんな、目の前で繰り広げられるその信じられない光景に、ただ呆然としていた。



「まずい!!・・・・・・帰らねぇと」

「大ちゃん無理だ、外なんて歩けたもんじゃねぇ・・・死んでまうぞ!!」

「でも、家が!!・・・・・弟たちが・・・・・・」

・・・・・そう言い残して止める同僚を振り切って、外にでた。

同じように、なんとかして帰ろうとする者もいた。きっと、家族が待っているんだろう。



大は、この工場までバスで通っている。

バス停までは、徒歩で5分。あそこまで行ければ・・・・・。

傘など、させたものではない。意味がないし、だいたい、鞄も手に持っているのがやっとだ。

身をかがめた状態で前に進む。

その度に、目に何かが入って、痛くて開けていられない。

「!・・・・・・っっ痛!!・・・・・・」

額に衝撃と鋭い痛みを感じて、手をやってみると、その手が瞬時に真っ赤に染まった。

・・・・・・何かで、切ったらしい。

「ち、ちくしょう・・・・・・っっ」

こんなとこで、ヘバってたまるかよ!!

あんなちっこいのばっか残して・・・・・。

家に、家に帰るんだ・・・・・・・・



「・・・・おい、おいアンタ大丈夫か!?血が、血が出てるぞ!!家に戻れ!!」

40くらいのおじさんが、自分だって必死なくせに大の怪我に気づいて駆け寄ってきた。

「おっさん・・・・だから今、家に帰んだよ・・・南の、南行きのバスに乗るんだ・・・・」

「兄ちゃん!!南行きのバスは3時であがっちまったよ・・・・・・・!!」

「何・・・・・・・・・・・??」




無事で、いてくれ。

このまま何事もなく、終わってくれ。

明日になったらまた、元気な顔、見せてくれ。

みんな・・・・・・・・みんなだ、ぜったいだ。

「・・・・おい、兄ちゃん!!兄ちゃん!!!」

・・・・・大の意識は、そこで途絶えた。




・・・・・・楓が突然弾かれたように外に出た。

「楓??!!」

驚いて、藤真と牧がその後を追った。

その後を、寿とリョータも追う。

楓が玄関の扉を開けた先には、信じられないことに、晴れ間が覗いていた。

風も、心なしか落ち着いてきたように思う。


「ダイ・・・・・・・・・・」

「大兄か??・・・・・きっとバス止まって足止めくらってんだよ」

「楓・・・・・・ほら、大兄なら大丈夫だから中に入ろう・・・・」


「おい〜!なんか晴れてきてるぜ〜!?」

「台風もう、いっちまったんじゃねえか??明日運動会できるんじゃね〜の??」

寿とリョータは、嬉しそうだ。

「牧、どう思う・・・・・・・?」

「もう少し、様子を見るか・・・・・・・・・」

それは、台風の目に入ったつかの間の晴れ間だった。




7時。

夕方には1度収まったかと思われた雨風は、また脅威を増してきた。

魚住の家よりは頑丈であろう藤真の家でも、家全体がミシミシいい出した。


「うわっっ・・・!!冷てぇ!!」

リョータが、変な悲鳴を上げた。

雨もりだ。

・・・・・・・急いでバケツや洗面器を並べた。



もう、ずいぶん前に停電はしていた。

ローソクの明かりで、有り合わせの夕食を済ました。

外では、ガタガタガタガタと雨戸が揺さぶられる音が絶え間なく続き、

時折何かが激しくぶつかってドーンと、家が壊れそうなくらいの音がする。

楓は、もうずっと藤真にしがみついたままだ。

藤真はその頭を撫でてやりながら、一度雨風が弱まったうちにチビたちだけでも
学校に避難させるべきだったと、後悔していた。







そして、ついに来るべき時は来た。

「・・・・・・・牧、おしっこ」

「よし、ついていってやるから」

牧が、リョータの便所について表に出たときだった。


びりびり言っている扉を無理やり開けると、表では人の、
断末魔のような雄叫びがそこらじゅうで上がっていた。
庭の向こう側が、空が、妙に白く、明るく感じたのは何故だったのか。

さらに、明るいはずの向こうから、何かどす黒い生き物みたいなものが地を這ってくる。
・・・・・・・・そして足元に忍び寄るどす黒い生暖かいものを、水だと感じるのと、
それを確信させる誰かの叫び声が上がったのは同時であった。


「み、・・・・水だ!!水が出たぞーーーー!!!!!」


「!!・・・・・・・・リョータ、早く中へ!!・・・・・・みんな!!水が出たぞ!!!」

「大変だ・・・・父さーーん!!兄ちゃーーーん!!!」




・・・・・・・・・ついに、浸水が始まった。