7月4日木曜日 14:58
K電産神奈川本社内 A号館 14F エンジン生産技術部フロア
休憩室近くの廊下 自動販売機前
「すみません~今仕込み中で」
「・・仙道じゃないか!」
「あんた、海南の・・牧さん?」
「・・あんたはないだろ」
コーヒーブレイク・ハートブレイク
~ほろ苦いコーヒーをあなたへ~
仙道に突っ込みながら、牧は軽くデジャヴしていた。
この光景は知っている。
確か高校時代にも、試合会場でこうして仙道に声をかけ、
彼が振り向いたことがあったはずだ。
(・・あの時も確か俺のことを、あんた呼ばわりしたな)
ただ、あの時と今は、服装が違う。
当時は、恐らくお互い制服かジャージ姿だったはずだ。
(そこまでは、覚えていないが)
だが、今は牧がスーツで、仙道が会社のユニフォームであろう、
派手な青のジャンパーを着ている。
・・外見の移り変わりというのは、
時の流れを否が応でも感じる。
とはいったものの、仙道の高校時代のトレードマークであった
あのツンツン髪形は今でも健在だし、相変わらずの”イイ男”であるのだが。
それでも牧は、先程仙道の口から発された”海南”に
懐かしい響きすら感じていた。
「ようやく会ったな。噂には聞いていたぞ。
お前が、うちのオフィスの自販機の出入り業者をやっていると」
「俺もここに牧さんがいることは、随分前から知ってましたよ」
「そうなのか?」
「牧さん、有名人ですからね。K電産のバスケ部は華やかだから」
「抜かせ」
「ははは、本当のことでしょ」
「・・K電産は、懐かしいやつが多いぞ」
「懐かしい?」
「高校時代のバスケ関係のやつが、社員に多いって意味だ」
「ああ!その事なら聞いてます。特にこのフロアは多いって」
「聞いている?」
「ノブナガ君。彼とは廊下でよく会うんですよ」
「む・・あいつ、サボっているのか?」
「はっはっは、それはどうかな。息抜きはそれなりにしてるっぽいですけど」
「まぁ、根詰めても進まんときは進まん仕事だからな。特にあいつの職種は」
「あのノブナガ君がCADで設計やってるんですって?すごいなぁ」
「ああ。あいつは専門職だから、それこそパソコンの前に終始座りっぱなしだ。
納期前は深夜残業に土日出勤。うまくいかない時は、しょっちゅう雄叫び上げてるぜ」
「ははは、雄叫びはイメージ通りかな。
でも高校時代は少しでも
じっとしていられなさそうだったのに・・それが今では座りっぱなしですか」
「あれであいつ、図面描きのエースなんだぜ。仕事がすこぶる早い。
まぁ、ちょこミスの天才でもあるが。それにしたって人の倍早い」
「すごいよなぁ!俺パソコン全然ダメで。ずっと座ってるのも性に合わない。
だからホラこういう、カラダ使う仕事してるんです」
「なるほどな・・うちに通いだしてどのくらいだ?」
「去年K電産の担当任されて、1年ちょっとかな。ここは広くて大変です」
「そうか・・藤真には会ったか?」
「藤真さん?」
「あいつもこのフロアにいる。俺と同じ部屋だ」
「同じ部屋どころか、席が隣なんでしょ?」
「あ、ああ・・・」
「それもノブナガ君に聞いてますけど、さっぱり会いませんね~」
「あいつ、忙しいからな。しかも
しょっちゅう席を離れている。出張も多い。今日もおらん」
「牧さんも部活でしょっちゅういないんでしょ?
2人ともレアキャラなんですってね。
・・でも藤真さんかぁ、会ってみたいなぁ会社で・・他には誰が?」
「このフロアに翔陽の伊藤・・って言って、解るか?」
「やだなぁもちろん。高3の時には
翔陽と陵南でお互いキャプテンでしたからね。穏やかな外見なのに、キレ者でした」
「最近誰の影響か、口まで達者になってきてるしな」
「えーっと、誰の?」
「まぁそれはいい・・そうだ!あと
知っているとは思うが、うちの部活には流川もいるぞ」
「ああ!この前テレビで観ましたよ、
あいつすごい人気らしいじゃないですか~、特に女子に」
「・・・おかげでうちの試合のチケットは飛ぶように売れているぞ。
でも、うるさいんだ!これが。親衛隊がすごくて。
派手なうちわやペンライトなんてを持っていて、
まるでジャニーズか韓流アイドルのコンサートみたいになってる。
でも、当の本人は一貫して”我関せず”だ」
「ははは!相変わらずだなぁあいつは」
「デザイン部には神、ブレーキ部には湘北の赤木と木暮もいるし。
彼らの部署はこの建物内ではないけどな」
「へぇ、神の事は聞いてましたけど・・
赤木さんに木暮さんもいるんですか。
そりゃオールスターだな。さすが天下のK電産」
「もし車買うことあったら言ってくれよ。少しはクチきいてやれるぜ」
「それは嬉しいですね・・ところで牧さんは、まだあれに乗ってるの?」
「”あれ”?」
「緑のゴルゴ。まだ、乗ってるんですか?」
「ゴルゴ・・?」
「あれ?そう呼んでませんでしたっけ?」
・・・それは藤真独自の呼び名のはずで。
「あ、さては忘れちゃってるんでしょう?
あれは高校2年の時でした・・俺、牧さんの愛車のボルボに
乗せてもらったことありますよ。覚えてませんか?」
「あ・・・」
「あの日俺、腰越港の堤防で釣りをしていて・・
突然現れたお2人に拉致られたんですよ?
驚いたよなぁ、おもむろに双璧が現れるんだから――」
(おまえ、驚いた様子なんて微塵もなかったじゃないか・・・)
もちろん、牧も覚えていた。
仙道が言っているのは・・牧が最近思い出すことが多かった あれ のことだ。
――高校時代の終わりのことだ。
牧はバスケの合間を縫って車校に通い、念願の運転免許を取得した。
とにかく運転したくて仕方なくて、でもひとりで乗っているのも何なので・・・
と思った時。1番に頭に浮かんだのは何故か
バスケに明け暮れた高校3年間、
神奈川の双璧と称され続けた、自分の片割れの藤真だった。
思い立った朝にいきなり電話をして、
本人が家にいるのを確認すると早速出かけて行った。
藤真の実家までは、車で45分というところだった。
『すごいなこの車』
藤真は開口一番、そう言った。
『俺が着いたの、窓から見てたのか?』
『エンジン音がうるさいから、わかった。この車、おまえの?』
『大学祝いに親に買ってもらった』
『さすがだな・・左ハンドル・・・外車じゃないか。何より、色が良い』
『色?』
『翔陽グリーン』
『・・・紫はなかったんだ』
『だからってグリーンを選ぶなんて。今からでも、ウチ(翔陽)来るか?』
『・・俺らもう、卒業だろ』
そう、海南大附属のカラー、紫という選択肢がないからといって、
翔陽のカラーの緑を選ぶ理由にはならなかった。
(車の中で緑色のボディは間違いなく少数派だ)
牧は緑色が取り立てて好きなわけではなかったし・・
それこそ選ぶ理由はなかったはずだが・・・
・・・今思うともしかしたら、
車を選ぶときから牧は藤真を意識していたのかもしれなかった。
助手席に藤真を乗せて、発進した。当てなど特にないが、
藤真が海を観たいというので、海沿いへ向かった。
『後でちょっと俺にも運転させてくれ』
『おまえ、免許ないだろ』
『バレた?』
『バレるだろ』
『これ、なんていう車?』
『ボルボのV70』
『ふーん。物騒な名前の車だな』
『物騒?』
『狙撃されそう』
『は?』
『だってゴルゴって言うんだろ、この車』
・・・あの時は、冗談でも言っているのかと思ったが。
藤真は、至って真面目だった。
ボルボを知らず、おまけにゴルゴと聞き間違えたのだ。
車内ではしばらくの沈黙が起き、勘違いの確認作業と訂正が行われ・・・
そこから牧が爆笑、藤真が赤面、そして拗ねる・・というギャグ漫画のような時間が流れた。
・・牧の頭に、あの頃がどんどんフラッシュバックする。
あの後、海岸通りに出て・・
藤真は隣で、まだゴルゴの言い訳をしていて・・・
『おまえだって勘違いしたこと、あるだろ?例えば・・そう!
相撲の大鵬(たいほう)って、大砲だって思ってなかったか?』
だとかなんとか、さらに墓穴を掘って牧を呆れさせた。
・・そうこうしているうちに牧は思い出したことがあり・・・
『あ、そういえばほらあいつ・・仙道。
たまにこの辺りで釣りしてるらしいぜ。
近くに住んでるうちの後輩が、何度か見かけたって言ってたんだ』
――という言葉に藤真が
窓の外を見ながら 『ふーん』 と興味もなさそうに発し、
それからしばらく、何かを考え込む様に無言になった。
そして。
・・どれくらい走っただろうか、藤真が外を指さして短く、
でもはっきりと 『あ』 と言った。
路肩に車を止めて藤真の指さす先を見ると・・・
堤防で、さっき話題に出ていた張本人が、そこで本当に釣りをしていたのだ。
あれはまだ寒い、春が訪れる前の、今から8年前の湘南の海だった――。
あの時の仙道・・・試合で見る時と変わらないルックスをしていて・・・
でも、いくらかのんびりとしていて・・
いや、のんびりと言うよりは、飄々としていたのか・・・。
『・・あれー?牧さん藤真さん、二人揃って。もしかしてデート?』
『違えーよ馬ぁ鹿』
『・・・何だ、全然釣れてねーじゃねえか』
『ははは、そもそも何を釣ろうとしてたんだろうな、俺』
『は?魚だろ。変な奴だな。な、藤真』
『ああ・・』
『お2人は今からどこへ?』
『当てなんてねえよ。ただこいつが海が見たいって言うから』
『あ、藤真さんのリクエストだったんですね・・・海は、良いですよね』
『うん・・』
『どうしたおまえ、もしかして車に酔ったか?』
『え?何で?』
『いや・・・』
藤真が急に険しいような苦しいような表情を見せ出したので
牧は、そう気遣ったのだったが。
・・もしかして、藤真は仙道が苦手なのではないか、そう思った。
(そんな話は聞いたことがないし、合同合宿の際にもそんな様子は少しも伺えなかった)
しかしその思い当たりは、どうやら勘違いで。
『・・・仙道、おまえも車乗れ』
『『え』』
『おまえ、どうせ釣る気なんてないんだろ。
こちらも行く当てがあるワケじゃないんだ、旅は道連れって言うだろ。付き合えよ』
『・・・良いですけど』
・・・運転手の牧の意志を無視して、勝手に2人で決めてしまった。
藤真が仙道を誘ったのには、正直驚いた。
そこには、何も無いとばかり思っていたから。
好意も嫌悪も発生する余地などなく・・・無関係であるとばかり。
あの時のあいつ・・・ 波のようにそっと・・風のようにずっと・・そう、青色のように・・・。
そして8年後の今、目の前の現れた仙道は
あの頃とほとんど変わっていない。
年下のくせにやはり、どこか人を喰ったような表情。
飄々(ひょうひょう)とした態度。
・・・それなのに、人懐っこい笑顔で。
(まったく・・・読めないというか、不思議なやつだ――)
「・・残念ながら、今はもうボルボには乗ってないんだ」
「やめちゃったんですか」
「ああ、今はW自動車のフォーディアに乗っている」
「おっ、高級車!さすが牧さん」
「そうでもない」
「色は緑?」
「・・何故だ?」
「ボルボの時は、緑だった」
「・・・あれは、たまたまだ。別に俺は特別緑が好きなわけじゃない」
「そうなんだ?“緑色は可愛くて目立つし、
主人公にふさわしい色だと思いませんか”?」
「・・・何だそれ?」
「いや最近、伊坂幸太郎のインタビューで見たんですよ、そう言ってるのを。
あ、伊坂幸太郎ってご存知ですか?」
「小説家だろう。有名じゃないか」
「そう、“ガソリン生活”って小説を朝日新聞の夕刊に去年連載してて。
緑色の車、マツダ・デミオが主人公の。そのことについての記事」
「その話、俺もどこかで・・!・・
“オートモーティブテクノロジー”じゃないか?」
「ええ、7月号」
「・・何で、おまえがその雑誌を?」
「何か変ですか?」
「いや・・おまえは車が好きなのか?」
「?特には。俺は乗れれば何でも良いって思う性質なんで」
「では、何故・・・」
「?おかしいですか?」
「いや・・・」
・・・車好きならともかく、特に興味もなさそうな仙道が
”オートモーティブテクノロジー”を知っているのは心外だった。
・・この雑誌は主に自動車業界関係者が読むマニアックな雑誌で
一般の書店に並ばないので、発売元の日経BPから直接購入しなければならない。
ちなみに、K電産では発刊ごとに主任以上に1人1冊、配られている。
(・・どうやって、仙道はそれを読んだ?・・・どこで・・誰から入手した?)
「・・最近、めっきり暑くなりましたね。
ドリンクも、コールドの消費が一気に増えてきました。
ついこの間まで、凍えるくらい寒かった日もあったのに」
黙り込んだ牧を気遣ってか、仙道は話題を変えた。
コールド。凍える。寒かった。
そのワードに牧は、数ヶ月前ひょんなことから自宅に泊まることになった、
ベッドでの藤真の足の冷たさを連想して、身震いした。
そこで、牧は1つの・・もしかしたらずっと持っていた、
疑問というか違和感というかを、仙道に投げかけた。
「・・つかぬことを聞くが、お前の家は犬を飼っているか?」
「どうしたんです?急に?」
「いいから。教えてくれないか?」
「変な牧さんですね。お安い御用ですけど・・・
ちなみにそれは実家での話です?それとも今住んでるとこ?」
「あ?」
「今はいないけど、実家では犬飼ってますよ」
「!レトリーバーをか!?」
「?いえ。チワワを」
「チワワ・・・」
「?ええ」
レトリーバーの対義語、と藤真が呼んだくらい、
両者は異なる種類のものだった。
「チワワと言えば・・あの、とことん小さいやつだな」
「はい。親父がひとりでいるから、大きいのは面倒みられないみたいで。
小型犬が丁度良いみたい。俺もほとんど実家帰らないし」
「確かに大型犬の面倒は小型犬の比じゃないからな。
俺は昔、ラブラドールレトリーバーを飼っていたから、わかるぞ」
「それは大きいですね!犬は、何かと手がかかりますよね。
ちなみに今の住まいでは俺、犬じゃなくて猫飼ってるんです」
「ほう」
「・・犬ほどの愛情表現はしてこないけど
逆にそれが俺にはちょうど良いって言うか。
手もあんまかからないし、たまに甘えてくるのがたまらなくイイ」
「猫か。猫のことはよくわからん。やんちゃではないのか?」
「うちのは・・大人しい方かな。
でも、色んなところに爪立てる癖がある。習性だから仕方ないんですけど」
そう言うと仙道はジャンバーの下に着込んでいた白いTシャツの襟ぐりを
おもむろに降ろして、牧に見せてきた。
・・・肌には鎖骨の下辺りから胸にかけて、
ミミズ腫れのような線が、3本入っていた。
「うっ・・・!こんなにされるのか!?」
「多分、本人はじゃれてるだけなんだけど」
「そ、そうか。大変だな」
「ね、こんなに傷ものにされちゃって。責任取ってもらわないと」
「・・猫に取らせる気か?」
「はっはっは、いいですね・・
まぁ一緒に生活してると色々起こるけど、
可愛いから基本何でも許せるかな。
キャラメル色で、柔らかくて。いつも一緒に寝ています」
「親馬鹿だな」
「ええ。猫はあの、飼い慣らせない感じが良い。
犬の主従関係も良いけど、猫はいつまで経っても対等で、1対1なんです。
猫が俺に飼われてるんじゃなくて、ただ俺と一緒にいてくれるだけというか・・。
・・ああ、すみません、俺、猫の話になると長いんです」
「いや、ペットのいる生活は良いよな」
仙道と言い藤真と言い、ペットをまるでひとりの人間、一個人のように言う。
牧は、仙道の極度の猫好き具合には驚かされはしたが、
飼っているのが犬(レトリーバー)でなくて猫であったというその事実だけで
何故だか、もう充分満足してしまっていた。
・・そしてさらに気が大きくなった牧は
まるで自分の不満を打ち明けるかのように、仙道に質問を続けた。
・・・何故だか漠然と、仙道ならわかってくれそうな気がしたのだ。
「・・ところで、おかしな質問ついでに、
おまえは寿司はあん肝やウニが好きか?」
「何?今度は寿司?」
「イクラや、コーンの軍艦はどうだ?」
「何ですか~、カロリーもコレステロールも高そうなものばかり」
「だろ!?そう思うだろ!?」
「聞いただけで胃もたれしてきましたよ。
俺はヒラメみたいな白身の方が好きだなぁ」
「もっともだ。気持ち、非常に解るぞ」
「寿司が、どうかしたんですか?」
「パスタはどうだ?トマトソースか!?」
「ははは、答えてくれないんだ、良いけどね・・
俺、パスタはクリームかオイル派なんですよ」
「そうだろうそうだろう!!
では、コーヒーは好きか!?浴びるように飲むか!?酒はどうだ!?」
「コーヒーは、苦手なんです。
砂糖とミルク入れればまだ飲めるかもしれないけど。
あと、酒は下戸なんで一切やりませんね」
「・・ケーキを2つも3つも食べるのを、どう思う?」
「あーもう、全然無理ですね」
「そうだろう!!やはりお前とは気が合う!」
「やはり、って何ですか?」
答えを聞きながら、
どこかホッとしている自分がいることに驚き、牧はかぶりを振る。
だが、とことん嬉しい。
「やっぱり、味覚が全く違うというか、
偏食家のやつは駄目だよな!ははは」
「?」
「お互いの好きなものが違う。それどころか、相手の嫌いなものが好き。
共通の敵を持てば精神の結びつきが強くなるというものを」
「・・もしかして牧さん、恋人が偏食家なのが悩みとか?」
「はっはっは、そんなワケないだろう。実に下らん」
「それなら良いけど。じゃあ今の質問は、
何の意図が?飯でも奢ってくれるんです?」
「ははは!どこでも連れてってやる!!」
仙道は突然笑い出した牧に、
まったくワケがわからないというようにおどけてみせた。
牧は、気分爽快だった。
でも、それが何故なのかは、よく解っていなかった。
仙道が犬ではなく、猫を飼っていたことに?
牧の味覚が、どうやら間違ってはいなかったことに?
仙道が、藤真(の嗜好こととは知らせていないが)を否定したことに?
「・・あぁ、そろそろ行かないと。
他の階の自販機も周んなきゃいけないんで、俺、これで」
「おう!下らない話を振って悪かったな」
「下らなくなんてないですよ。
だって牧さんにとっては大きな問題なんでしょ?」
「何だって?」
「・・俺にとってはまったく問題じゃないけどね。
俺だったらパスタ、恋人がトマトソースが良いって言ったら、
自分もそれ食べるかな。それか、2種類用意するかも」
「!」
「あん肝もウニもケーキも、好きなだけ食べてくれて問題ないしね。
コーヒーもお酒も構わない。むしろ、好みのを買って家にストックするかな。
病気になりそうなくらいの量だったら、さすがに止めるかもしれないけど・・・」
「・・それは、甘やかしすぎだろ」
「そうかな?自分が相手にそうしたいだけなんだけど。
コーヒー飲まないと目が醒めないなら、毎朝豆から挽いてドリップしてあげる」
「おい・・」
「このコーヒーだってね・・あ、青い缶のこれ。エスプレッソなんですけど。
あんまり売れなくてラインナップから外されそうだったところを、
職権乱用しちゃいました。だって、これじゃなきゃ駄目って言うんですもん」
「・・誰が?」
「うちの猫。何でか偏食家なんです」
「猫、が?」
・・・猫がそんなものを、飲むはずないだろう。
そう言おうとして見開いた牧の目の端に、何かが煌めいた。
仙道の、青いジャンバーの襟元当たり。
あれは・・まさか・・・
あまりの驚きにその1点を凝視したまま牧が固まっていると
その目線に気付いて・・さらにその理由に気付いた仙道が、ゆっくりと口の端を上げた。
「ああこれ、たまにね、着いちゃうんですよ」
長い、器用そうな親指と人差し指でそれを摘まみ上げて・・・
牧の目の前に、突き出した。
この光景は、どこかで観た光景。
本日2回目のデジャヴ。
少し前に自分の婚約者の明美に――
牧は同じものを突きつけられたばかりだった。
『紳一、浮気してる?』と。
そうその時、明美に突きつけられたのは――。
「言いましたよね?うちの猫、キャラメル色だって」
――明らかに猫の毛ではなく、
人間の髪の毛、だった。
長すぎず、短すぎないその美しい髪の毛の持ち主は、
青の缶コーヒーが、エスプレッソが好きで。
机の上にどんどん空き缶をためるのを、先程も牧が片づけたばかりで。
・・・その色はキャラメル色と言うよりは、
栗色だと俺は思う・・・牧はそう抗議しようと思ったが
口が、言葉を発するように動いてくれなかった。
苦しい呼吸音しか、出てこない。
仙道は摘まんだままのその髪の毛に愛しそうに視線を落とすと
おもむろに唇に咥え、びっ と、そのまま引っ張って舐めあげた。
その仙道の行動で、牧の脳裏に
先日の昼時――回転寿司での会話が、フラッシュバックする。
『うちの犬はヤキモチ妬きなのと、
舐めまくってくる癖がたまに辛い。
・・・そこがちょっと厄介なところかな』
厄介 と言いながらも、
嬉しそうに、口元を緩めていた藤真!!
飼い犬はオスで、2歳半・・
それは人間の年に換算すると25歳。
規格外にデカく、
ハンサムで利口。
とにかく海が好き。
名前はブルーで、
毎晩一緒に寝ている。
そんな藤真の飼い犬の、ラブラドールレトリーバー。
その正体が、何なのか。
否・・・誰のことなのか。
今、全てが腑に堕ちる。
『藤真は犬を飼っていて、仙道は猫を飼っている』
その、本当の意味を。
「・・・知っていたか?藤真のやつは、犬を飼っているんだ」
もっと言いたいことがあるはずなのに、うまく言葉が組み立てられず
時間をかけ、挙句の果て、自分の口から出た言葉はそれだった。
「へえ、藤真さんは犬派なんだ」
「今さら、しらばっくれんなよレトリーバー」
「・・・レトリーバーなんですね。それは大きい」
「ああ、ムカつくくらい規格外だ。
それにこいつ・・とても常識的な犬でな。
飼い主に、夜中の3時に電話してくるような、な・・・」
「へえ・・・そりゃひどい」
「だろう。躾を疑うよな」
「・・でもねえ、牧さん」
「何だ」
「猫は気まぐれで・・悪戯好きなんですよ。
それって普段は理詰めでものを考え続けてる反動なのかわからないんですけど・・
・・自分でも考えがまとまらないまま、先に行動してしまう時があるんです」
「どういうことだ」
「んーと、決断力はあるけど判断力があまりない状態、って言えばいいですか?」
「・・何が言いたい?」
「だから・・あの子の突発的な行動に、期待しすぎないで。
・・反射的にやったようなものですよ。
猫が、猫じゃらしにじゃれるのと変わりない。
たまの深酒も、お泊まりも・・・
深い意味も、悪気もなくやってるんですから。
・・そしてそういうのをある程度許してあげられる
俺みたいな人間じゃないと、猫は飼えません」
「なっ・・・!期待、だと!?」
「ええ、それにね、あの子は冗談みたいに寒がりの冷え症なんだ、夏でも変わらず
――だから寝る時は、どんなに氷みたく冷たい足をくっつけられたからって
一晩中、それを温め続けなくちゃいけない」
「それは・・飼い主は、苦労するな――」
「ええ、本当に」
「おまえなら・・それができるのか?」
「やってます、毎晩」
「・・そりゃ御苦労さん」
「それでも・・手放す気なんてまったくありませんから。
・・・今度ご飯ご馳走してくれるの、楽しみにしてますよ。
その時は、うちの猫も連れていきます」
・・仙道は声優のように淀みのないバスバリトンの声でそう言い放つと、
牧の方へ小さな缶を投げて寄こした。
「何だこれは」
「よかったら飲んで下さい。・・じゃあまた、近いうちに」
・・・そして台車を業務用エレベーターに乗せ
さっさと行ってしまった――。
************************
(俺は、騙されたのか?)
いや。
だって仙道は、初めから言っていたではないか。
『藤真さんかぁ、会ってみたいなぁ会社で』
やつは”会社で”、 と言ったのだ。
それは会社以外の場所では、会っていることにならないか――。
・・・どのくらい茫然と立ち尽くしていたであろうか。
牧は、仙道が投げて寄こしたコーヒーのプルトップを開けた。
青い缶のエスプレッソ。
藤真が、毎日何本も飲んでいる―――。
(俺は、コーヒーは飲まないって言わなかったか?)
そう心で悪態をつきながらも、一口飲み込む。
・・これを飲んだのは、藤真がコーヒーを飲み過ぎていた
2ヶ月程前の残業中のあの晩――それを牧が見かねて取り上げて、
無理矢理飲んだ時以来だった。
(そうだ、俺はあの時、
あいつと藤真の関係など、何も知らなかった。
そして知らないまま、藤真と、間接キスを――)
牧はずっと前から点と点をいくつも知っていた。
それでも――それらを線で繋ぐことを、しなかった。
それをしなかったのは、
本当に気付くことができなかったからなのだろうか?
それは単に、傷つくことを回避するために
無意識の抵抗にあった、とは言えないだろうか?
・・・そう、前からあったのに。
違和感も、予感も・・・胸騒ぎも。
それでも、感情も結論も出来る限り先送りに、先延ばしにした。
認めてしまえば、逃げていた。
でも、このまま逃げ切る事など出来ないとも、どこかで気付いていた。
(俺は・・・女々しい男だな)
――夏でも冷え性の猫は、今夜も犬と絡まって眠りにつくのだろうか。
・・・本日のコーヒーは、前回よりもさらに苦くて、
しかも何だか、しょっぱかった――。
************************
<勝手に参考文献>
・オートモーティブ・テクノロジー(7月号)/日経BP
・世界から猫が消えたなら/ 川村元気
これはK電産を書き出した時にすでに決まっていた節目!!
今日の晴れの日、ここまで話を持って来られたことを非常に嬉しく思います。
皆様、K電産を、彼らを愛してくださりありがとうございます!!
2013.07.04 木曜日 仙藤の日。仙藤祭の、幕開けです!!
(お手数ですが、ブラウザでお戻り願います)
|