嗅覚テレポーテーション第2話
Can I have a word?
 



K電産神奈川本社A館14階、エンジン生産技術部。現在の時刻、20:45。
残業の人間も減り、普段200人が働いているこの設計フロアも、随分と人がまばらになっている。


「うーん・・・」
頭が、重たい。
牧は、仕事のときだけかけるメガネをおもむろに外し、
デスクに座ったまま後ろに伸びた。痛気持ち良い。
デスクワークでは前や下ばかり向いているので、
その形で首や肩が凝り固まってしまう強迫観念に近い思いに駆られる。

牧は、バスケの練習後に仕事をすることが多い。
それでも、次の日の練習に支障が出るので、なるべく早く・・・遅くとも
21:00には退出するのを心がけているが・・・
今夜は厄介なヤマがあるので、残念ながら帰れそうにない。


厄介な仕事のヤマ。
おまけに、少しでも気を許すと厄介にドツボにハマっていく思考。

・・・そう、
今朝のあれは、なんだったのだ。

あれとは、もちろんあれのことだ。
あの夢。あいつとの、情事。

頭に もしかして、俺は疲れているのか? と言う考えが浮かぶ。
いかんせん、牧は自分の疲れに鈍い。
(彼のことを人はしばしば鈍感とか天然ボケとか呼ぶが、
それは的を射た表現であり・・牧の、バスケ以外のすべてに通ずる性質であった。
そして、自分自身のことも例外ではない)
少し調子が狂うな、と思っていても、いつもと変わらず過ごしていたら
いつの間にか高熱が出ており・・・ひどい時はインフルエンザであったり。
試合後に足の小指が痛むな と思っていても、局所を少々気遣うのみで普段通り過ごしていたら
次の日に真っ黒になって、ようやく病院に行ったら骨折していたことが発覚したり。
そのくらい、牧は鈍かった。

・・・実際、自分がそうであるかは考えたこともないし、考えても正直わからない・・が、
一般的に疲れているときの方が、そうでないときより性欲が高まると聞く。
その心は、人も所詮動物なので、疲れている=普段より死に近い状態 と脳が判断して
子孫を残さなくてはならないと、身体が反応するからだそうで。

昔、戦で敵陣に突撃をする・・まさに今から死ぬかもしれないという時、
兵士たちはみな勃起したまま走っていく・・・と、真偽のわからない話を聞いたことがある。
兵士たちとは違い、今すぐに死ぬという状態からは程遠いが・・・自分ももしかして・・・。
牧は前線の兵士たちが奇声のような雄叫びを上げ、
勃起しながら敵に立ち向かっていくのを想像し、げんなりとした。
それはとてつもなく滑稽で・・哀れな光景だ。
そしてその言葉は、今の自分を言い表すのに最適な言葉とも言える。
・・・やはり、俺は疲れているのか?牧は、自分自身に問う。
だから、生理的にあんな夢を。
疲れのせいにすれば、今朝が丸く収まるのか?

だが・・・
疲れていたから、の生理現象では片付けられない大きな問題が、そこにはある。

『藤真・・愛している』

そう、愛している、と。
自分は夢の中ではっきりそう言っていたではないか。

今まで付き合った女性の誰にも、今付き合っている女性にももちろん、
大切に思っている、思っていた、
家族にも友人にも、あんなに可愛がっていた飼い犬にも、
1度も使ったことのない言葉を・・・他でもないあの男に。

まったく、どうかしてるぜ・・・。
本日何十回目になるかわからない溜め息を、大袈裟に吐き出す。



・・と、突然その牧の視界を、影が覆い隠した。

「な―――にシケたツラしてやがんだ」

椅子に腰掛けたまま背もたれに反り返り、首の筋を伸ばしていた牧に
それは上から覗きこむようにして・・・通常ではありえない逆さまのアングルで・・・
・・夢の中で散々口づけを交わした端正な顔は、
夢の中の赤くて薄い、形の良い唇のまま・・・突如現実に現れた。

「ぎ・・・ぎゃっ!!!!」

・・・突然の藤真の襲来(?)に、牧は思わず椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。

「危ねっ!おまえ、こんなとこで変にコケて労災になるなよな!
あれは事後処理がクソ面倒だからな」
「ででで・・出たっ!!」
「何でぇ。人のことを化けモンみたいに」
「お、驚いたじゃないか!!」
「・・よっぽど考え込んでたな。だって、俺が横座ってても全然気付かないんだもん、おまえ」
「何だと?いつからいた!?」
「どうかな。CM7本分は時間経ったんじゃないかな」
「・・何なんだ、そのわかりにくい例えは」

藤真は牧のその突っ込みには答えず、勢いよく自分のデスクに座り
銀色のスリムなhpのノートパソコンのロックを解除し、どうやらメールのチェックを始めたようだった。

・・牧は、ちらりと左を盗み見る。
そう、藤真は今、牧の左隣に座っている。
机を隙間なく並べて、座っているのだ。
手を伸ばせば触れることができる位置にいる。

年末にあったフロアの配置転換で、そのようになった。
(以前までは、課ごとで島が分かれていた)
1課2課の主任同士、確かに隣になっても何ら不思議ではないが。


・・・なんだ。良かった。

牧は1人で、少しほっとする。

藤真が、いつもの藤真だったからだ。

そして藤真と接する自分の心持も、いつものままだった。

今日・・もしかしたら今後、ずっと藤真相手にドギマギしたままだったらどうするか、と悩んだ。
悲しいかな現状は、お互い仕事で関わらなくてはやっていけないポジションにいる。

今朝の夢。立ち上る、妖艶な香り。匂い。
・・・牧は今回のことで、人類の嗅覚が極度に退化した原因が解った気がした。
むしろこの世を生き抜いていくために人類は、鈍感になることを選んだに違いないのだ。

現代社会に置いて、フェロモン匂が識別ができないと不都合が生ずるわけはなく――恐らく視覚でもって代替可能であり――逆に、フェロモン匂は感知できない方が都合が良いくらいだからだ。
もし人にフェロモン匂を嗅ぎ分けられる鋭敏な能力があったら、迷惑千万なことになる。
満員電車での通勤や、大きなオフィスで働くことが不可能になるに違いない。
 
人が、フェロモン匂を十分に嗅ぎ分ける能力を備えていたとしたら・・・
息を吸う度に様々な大勢のヒトのフェロモン匂を感知してしまうだろう。
物陰になって見えない所にも”ヒトが大勢いる”という情報が絶え間なく脳に入ってくるのである。
皆、脳の中でそれらの情報を処理し続けなければならない。

・・・これだけで済めばまだ良いが、殊に男にとっては地獄の苦しみを味合わされることになるだろう。うら若き女性が排卵期を迎え、それをフェロモン匂として情報発信し続ける。
つまり、発情期を迎えた女性を、何人も絶え間なく察知してしまう訳だ。
もちろんその匂いを嗅いだ男達は・・発情スイッチが入りっ放しになり・・その女性達に接近し、セックスの誘いをせずにはおれないといだろう・・と、いとも簡単に予測がつく。

・・男達は、これを理性でもって我慢しなければならないのである。
それではもはや、仕事どころではないだろう。
ズボンの中でいきり立つ一物をどうやってなだめるのか、
丸一日それに悪戦苦闘させられるのである。これを地獄と言わずして何と言おうか。
そう・・・幸か不幸か、ヒトは、こうしたフェロモン匂を嗅ぐ能力を大幅に減退させているから、満員電車で通勤したり、K電産のような大きなオフィスで働くことも可能なのだ。

・・・と、牧は軽くレポートでも書けてしまいそうな考察をめぐらせていた。
どれもこれも、今朝の藤真のせいである。
女性でもないくせに・・・あのフェロモンは、一体何だったのだ?と乱心した。

今朝から本当に色々考えた。
それらの問題はあるものは分析できたり、あるものは壁にぶち当たったままだったり・・・
いずれにせよ、藤真を極度に意識しているという証拠にしかならず・・・。
それならとりあえず、せめて今日1日は藤真に会いたくないと思っていた。
(藤真はサービスサポート部にも兼任で席を置いているし、
実験室にも出張にも頻繁に行くので、1日席にいない事も珍しくない。
そして今日も例外ではなく、牧が出社した頃には藤真は自席にいなかった)


・・・だが、実際はどうだ。

牧は、己に勝った、と思った。

むしろ、戦うまでもなかった。不戦勝だ。

何故なら自分は、今見事に平常心を保てている。

藤真に・・今朝の夢の中でのような、溢れ出るフェロモンや色気など、見る影もない。


正直に言うと牧自身、彼と接する他の男性たちも恐らくそうであるように・・・
藤真が男だということはもちろんわかっているが、
長い付き合いの中で、彼のことを 可愛い とか 綺麗 だとか・・思う瞬間がない訳ではなく。
なので、性的な対象として見たことがなかったわけではない。
(牧は同性愛者ではないが、藤真はもともとそういう嗜好のない者たちを
自分の意思とは無関係のところで、そっちの道に引き込んでしまうという
難儀な性質の持ち主であった)

牧の周りでも・・・女性のみならず、男性たちの中にも少なからず
藤真をそういう対象として見る者がいることも知っていた。
人によっては、あからさまに積極的に誘う者もいる。
牧は今まで、そういう輩に対して嫌悪を滲ませてきたくらいだった。

しかしありがたいことなのか、牧の時折藤真へ対して沸く疑似恋愛的な感情は毎回、
業務や付き合いに支障があるほどには湧いてこなかったし、継続もしなかった。
・・・以前にその理由を考えてみたこともあった。
結果”藤真には色気やフェロモンというものがあまりないからだろう”という
何とも失礼な結論に落ち着いた。

そう、不思議なことに藤真は、常時無臭なのだ。
人間臭い匂いが、ほとんどない。
彼のレベルまで美しすぎる人間というのを他に知らないので比較対象がないが、
美しさも度合いが過ぎると、リアリティがなくなってしまうのかもしれなかった。
(藤真自身、完璧にアンドロイドのような顔や身体の造作をしている)

もともと、人間は・・特に日本人は、わずかに欠落しているものや
完璧な状態から少し衰退した過程に色気や情緒を感じるという、厄介な性質があるのだろう。
例えば、数字。日本人は、奇数が好きである。奇数を含む言葉がもてはやされる。
”御三家”、”三度目の正直”、”早起きは三文の徳”など・・多数存在している。
子どもの成長を祝う七五三など、顕著な例であろう。詩歌も、七五調。

この理由については・・恐らく奇数の方が偶数と違い未完成であるので、想像力が働く余地があるというか、余情とか余韻とかがあるからであろう。

だが逆に外国では奇数が嫌われている。
中国語圏では発音の関係で7が嫌われている(「棄」という意味が発音に含まれる)と言うし、
キリスト教圏では13が嫌われている(キリストを裏切った弟子・ユダが13番目の弟子であったからとか、キリストの磔刑(たっけい)が13日の金曜日に執行されたからだとか言われている)。
そして彼らは、完璧な偶数を好むのだ。
日本では4は”死”を連想すると忌み嫌われるが、中国では四君子とか四海とか言ったりする。
日本には”六でなし”と言う言葉があるが、中国には”六芸”という言葉があり・・・。
おまけに、八方美人は日本では非難の言葉であるが、向こうでは褒め言葉なのだ。

・・諸外国は花は満開。月は満月。とことんシンメトリーを愛する。
日本の、三日月とか五分咲き、散り際を愛でるといった感性は、彼らには縁遠いのであろう。
どちらの価値観が良いとは言えないが・・・。

そして心外に思われるかもしれないが、すべてにおいて完璧を望むと思われがちな牧だったが
意外とそうでもないのであった。
もっとも藤真の場合、外見は完璧でもその性格が欠落・・
と言うよりも湾曲・・していると言えるだろうが。
(こんなことを本人に言ったら、ただでは済まない)

先ほどの数字の話ではないが・・完璧すぎるのが理由なのか、とにかく
藤真からは悪い匂いもしないが、その代わりに、色気のような匂い立つものもあまりない。

牧は、自分でも自覚しているが嗅覚が異常に鋭い。
そして、俗な言葉で言えば、匂いフェチなのだ。
異性を好きになる際、相手が自分好みのルックスであるかも大事だが
それ以上に自分の好きな匂いの女性か、というのが大事なのだ。
ところが、藤真は無臭なので・・
だから、男としては美しすぎると称される藤真といても、
その、付け入る余地のないルックスとほとんどない匂いを持って、
その毒牙にやられることなく、いられるのだと思う。

だが・・今朝の夢の中での藤真は、藤真であって、藤真ではなかった。
あんなに匂い立っていて。危うくて。

あの色っぽさはなんだったのだ。
匂い立つ香り。絡みついてくるフェロモン。ひやりと冷たく、心地の良い肌。
たった今、隣で仕事を始めたこの無骨な男と同一人物とは、とても思えない。
妙に長いまつ毛に白い陶器のような肌。紅くて薄い唇。確かに非常に美しい。
・・だが、パソコンのブルーライトに目を細めてしぱしぱする険しい表情や
無茶なメールでも着たのか 「あー、ちくしょっ」 などと言いながら、
頭を無造作に掻きむしる仕草を見て。
・・・これでは100年の恋も冷める。もはや、これは立派な詐欺だ。

牧は、少し複雑だが・・興ざめしながらほっとした。
そして同時に、少し失望した。
俺は、これからどうすれば良いのだ、と。
夢の中のたった1回の性行為の方が、幾度も重ねてきた現実よりも良かったなんて・・・
むなしすぎる。恨めしい。
どれもこれも、あの夢の藤真のせいである。

「ねー、何?」
「・・あ?」
「さっきから俺のこと見てるだろ」
「・・・・・・・・」
「うわっなんだこのメール!品保(品質保証部)め・・・またイチャモンつけてきやがって!」
「・・・イチャモンつけるのが彼らの仕事だから、仕方ないだろ」
「うまい事言うじゃん、違いない・・で、何で見てた?何か言いたいことでもあるのか?」

こちらを見もせず、相変わらずキーボードを打つ手を休めもせずに。
藤真は、いつも鋭く、無駄がない。

「すまん。確かにおまえのことを見ていた。だが、さして理由はない」
「・・俺の美しさに虜になっちゃった?困るんだよね、そういうの」
軽口を叩くのも、いつもの彼で。
「馬鹿。言ってろ」
「今晩は、やけに遅くまで残ってんのな」
「おまえもな」
「俺は、いつもだから良いんだよ」
「何が良いんだ。慢性的なら尚更良くないだろ」
「放っとけ、それよりおまえはどうして今日遅いの?」
「ハマったんだ」
「自らハマったの?他人にハメられたの?」
「両方だな」
「具体的に言うと?」
「・・・深見課長絡み」
深見課長というのは同部署の、4課の課長だ。
牧のいる1課がエンジンのメカとして入れ物部分を、
藤真のいる2課がハードとして電子回路部分を担当しているのに対し、
3課はソフトとして頭脳部分を・・そして深見課長のいる4課は1・2・3課が作り上げたものを統合して
それらの試験・評価を担当している。
「端的な表現だな」
「だろう」
「仕方ない。おまえは深見課長のお気に入りだからな」
「お気に入り?逆だろ」
「あの人が突っ込むってことは、お気に入りってことさ」
「それが本当なら、随分と曲がった愛情表現をする人だな」
「あの人は、解りやすく曲がってんだろ」
「解りにくく曲がってるおまえに言われるとは、深見さんもさぞ光栄だろうな」
「何か言ったか?残念ながら俺の耳は都合の悪いことは聞こえないんだ」
「・・めちゃくちゃ聞こえてんじゃねえか。とにかくあの人も品保じゃないが
イチャモンつけるのが仕事の人だからな」
「そう。おまけに自分のお気に入りにしか突っ込まない」
「あいにく突っ込まれてるのは俺じゃなくて、戸上なんだがな」
「戸上に突っ込むってことは、おまえに突っ込むってことだ。具体的には?」
戸上、というのは1課にいる牧の部下のことだ。
当の本人は、データを取りに実験室にこもっている。
「・・・A車向けの製品だ。ソフト、ハードとの相性が悪いから作りを見直せと言われた」
「相性?」
「ソフトとハードが命令・動作してから、メカが動くまでがスムーズじゃないんだと」
「ふーん。実際そうなの?」
「いや・・正直これ以上どう反応を上げろと言うのか、わからん。そう言ったら、
現状で問題ないという試験報告書を作成して、持ってこいと言うんだ。
従来のものと比較して、数値で具体的に示せと・・
それで納得させることができれば、晴れて検問突破させてくださるらしい」
「わあ、素敵な検問。さすが深見さん」
「素敵ないじめ方だろ」
「それ、急ぎだな?」
「ああ、後工程がかなり詰まってきてる。1日でも早く組み付けて次に流さないと、
とてもじゃないが最終納期に間に合わない」
「それは素敵さに拍車がかかるな」
「こんなことやっている場合じゃないと思うんだが」
「本人にそう伝えた?」
「言ってみたさ何度も・・だが、聞く耳を持ってくれない」
「課長がダメなら室長に直訴したいところだが・・」
「そう、恩田室長はテネシー出張中だろ。あと1週間は帰ってこない」
「これで残業コースのカードは全部揃ったな」
「仕方ないさ。会社には色んな人間がいるものだな」
「本当にな」
4課の課長・深見は、決して仕事ができない社員ではない。
だが、融通が利かないベテランで、すべて資料で把握したがるきらいがある。
無駄を省くのも、立派で当たり前の生産性向上なのだが・・・。
そして中でも、彼は牧に対して特に当たりが厳しい。
それは牧が、このK電産に親戚が何人もいる金持ちのサラブレッドであることと
切り離せはしないだろう。
・・・とどのつまり、牧に嫉妬しているのである。

「その報告書、いつまで?」
「明日の夜にはこれを持って深見さんを説得にいくつもりだから、それまでに。
・・・今夜中に、できるところまでやるさ」
「おまえ、明日もバスケの練習あんだろ」
「もちろん。M工業との試合が近いからな」
「あんま無理すんな。手伝ってやろうか?」
「抜かせ。おまえは自分とこで手いっぱいだろ」
「なめんなよ、と言いたいところだが・・ご存知の通り、常にオーバーフロー状態だ」
「おまえのところは、人数に対して業務量が多すぎるんだ。人員を増やす話はどうなった?」
「上にはずっと言ってるんだけど、まだ。しばらくは現状のままだろうな」
「なんだかな」
「人が増えれば誰でもいいって問題でもないし、難しい。
もしできないやつが来た場合、こっちの仕事が余計に増えるのが目に見えてる」
「そうなる可能性は大いにあるな」
「・・まぁ、仕事がなくて暇すぎるよりは良いんじゃないかって。
自分に言い聞かせて、毎日何とか乗り越えてるさ」
ため息まじりにそう言いながら、藤真は勢いよく立ちあがって牧の背後に回り込んできた。
牧の背中越しに、パソコンを覗きこんでくる。

牧は一瞬、どきっとした。
今朝の夢―――。

・・・だが。
良かった。
やっぱり平気だ。
藤真から、あの夢の匂いもしない。
どこまでも官能的で、自分を溺れさせたあの匂いは・・・。
そして、その代わりに。
正体の解りやすい、自己主張の強い嗜好品の匂いがする。

「・・おまえ、まただぞ。今日は何杯飲んだ?」
「酒なら飲んでないぜ」
「馬鹿か」
「わかってるよ、コーヒーのことな。おまえ、相変わらず鼻が良いな」
「鼻が良いとか言う問題じゃないぞ。おまえ自体がまるで歩くコーヒーくらい、匂ってる」
「おっ、歩くコーヒーってなんか格好良いな」
「褒めてない。飲みすぎだろ」
「大丈夫。江戸時代にはコーヒーは薬として使われたくらい身体に良いから」
「このカフェイン中毒め。何事も限度があるんだ、取り過ぎて良い食品なんてあるまい」
「今日の摂取量は多くないはずなんだけど」
ふたりして、藤真のデスクを見る。
そこには青の缶コーヒーが(空き缶と思われる)、8本も乗っていた。
「な。少ないだろ」
そう言って悪戯っぽく笑う藤真から、
真っ白で行儀良く並んだ歯がこぼれる。まるで学生のように初々しい笑顔。
コーヒーが好きな人間にありがちな色素沈着も、この男の前では形無しのようだ。
藤真は、本当に何物にも染められない。
コーヒーにも、人にも、会社にも、時の流れにも。
「・・それ、3日分くらい溜めてるのか?」
「まさか。デスクは常に綺麗にしておきたい性質だぜ」
「8本も空き缶が乗っている時点で、すでに綺麗ではない」
「おまえの力で私物のゴミも設計室内に捨てられるようにできない?」
「無茶言うな」
環境ISOの関係で、設計室内に私物ゴミは捨てられない。
それらは持ち帰るか、社内の自動販売機や売店で買ったものなら
そこに備え付けのゴミ箱に捨てるのがルールだ。
「やっぱり俺のデスクは片付かない運命なんだ。
今日はおまえが忙しいせいで一層ストック抱えてるぜ」
・・・なんと現状、藤真の空き缶の処理は牧が行っているのだ。
これは藤真を甘やかしてやっているのではなく・・結果的にそうなっているが
仕事中に大量の空き缶が視野に入ると気が散るので、言っても一向に捨てるようにならない藤真に変わって、見るに見かねて牧が捨てているのであった。
(藤真のデスクはコーヒーの缶以外はいつも片付いている。
だが不思議と空き缶だけが何故だか片づけられるようにならない。
こういうところも、藤真の性格が奇妙に欠落しているところの1つであった)

「おまえ、子どもでも片づけするぜ?たまには自分で捨てに行けよ」
「固いこと言ってないで、そんなことより報告書見せろよ・・・ふんふん、
・・・ちょっとスクロールして・・もっと・・・おお、よくできてるじゃないか」
「これで現状打開できるかな、まったく・・今日は散々だった。まだこれも、直さなけりゃならないし」
「まぁ、明日までまだチャンスはあるんだ。そんな弱気な顔すんなよ」
そう言いながら、牧の方にポンっと両手を置いた。
藤真に言われるまで気付かなかったが、牧は弱気な顔をさらしていたらしい。

藤真は、変わらない・・・と牧は思う。
いや、初めにあったときから随分と彼自身は変わった。
高校生の時などは、いつもどこかトゲトゲしく・・近寄りがたく・・・
それは単に、牧がバスケでライバル校の自分と並び評される人間だからという事象に起因しているわけではなく――もちろん、牧に対して特に当たりが激しかったことは否めないがそれでも――彼が誰に対してもある程度そうだったということで。

藤真は内面が柔らかくなるのに連れて、外見も変わった。
鍛えすぎた筋肉が落ちて、相変わらず痩せてはいるのだが、
どこか女性的で――曲線的で柔らかい印象だ。
目元も、以前はつり目気味で張りつめてたように思うが、今は丸く優しい。
それが持ち前の童顔を引き立たせていて、さらに若返ったように見える。

・・・だが、いつでも藤真は藤真だ。
本質的な部分は、根っこの部分は変わらない。

いつでも強気で、ふざけて冗談めかしたことを言う。
下品であるかと思えば上品で。
何より言動の本質は真面目この上なく、無駄がない。
そして・・・広い意味での包容力がある。加えて、洞察力。
これが、部下から慕われ、上司から一目置かれる最大の要因だろう。

ニュートラルで平等な視点を持ちながら物事を様々な角度で切って見て、
必要あらば過剰になりすぎない、父性も母性も持ち合わせた包容力を、誰に対しても発揮する。
そして――深い洞察力で、相手の長所や誇りをくすぐる。
これをされるから、相手はたまらないのだろう。
だが、それは逆に相手をやりこめるつもりのときには痛いところを確実に突いて来るので、
その場合、藤真は相手にとってたまらなく目障りな人物になるのだが。
(その2つが、彼にストーカー的な信者や激しい憎悪を持つ敵を作らせているのに
本人が気付いているのかは、わからない。きっと、わかっていてもやめられないのだろう)

そしてそれは、例外なく牧にもそうなわけで。

牧は、世間一般に言うところの随分と裕福な家――金持ちに生まれた。
学生の時から他人に色眼鏡で見られることが多かった。
それを、格段気にもせず過ごしてきた。
時には、それが誇らしいこととさえ思っていたこともある。
だが。
社会人になって、自分に付けられるレッテルや、張られるバリケードが
さらに顕著になった・・と感じている。
勝手に自分の中で作り上げた虚像を権力と勘違いして、擦り寄ってくる者。
また、容易に近づいてはヤケドすると、恐れおののく者。
さらには嫉妬や劣等感を抱いて、敵対心を見せてくる者。
・・・いずれも、疲れる相手だった。
こういった人間が、悲しいかな周りに随分と増えた。

だが。
藤真は違う。
牧の親戚がK電産の重役にいることも、牧がバスケをやりながらも
技術部でエンジニアを続けていることも、特に意に介していないようだ。
藤真はバックボーンを気にせず、ひとりの人間として、牧と接してくれる。扱ってくれる。
ひとりの同僚のエンジニアとして。ひとりの実業団の選手として。そして友人として。
正しい事は正しい、意見するときは意見する。
楽しい時は楽しい、ムカつくときはムカつくと言う。
おじけづいたり、虚勢を張ったりもしない。

・・前に一緒に酒を飲んだ時、それとなくそのことを言った時、
藤真はにやりと笑いながら
『今さらおまえにおじけづいたり、虚勢を張ったりして、どうなる』
と言った。
『俺は、高校時代おまえのおかげで
人に対しての嫉妬とか、葛藤みたいな厄介な感情は使い切ったんだよ』
と。

・・・何故だか、嬉しかった覚えがある。
藤真に対して、自分は特別な人間だと言われたようで・・・。
他人を特別扱いはしない藤真が、過去の牧には・・・。


「――き、まき、聞いてるか?」
「あ?」
「おまえ、弱い相手との試合なんて、つまらないと思うタイプだろ?」
「・・俺はどんな相手でも手加減せんぞ」
「そうじゃなくて――、強い相手の方が燃えるタイプだろ」
「そうかな?」
「おまえ、絶対そうだぞ。だから、仕事でも
超えるハードルのない仕事なんて、まっぴらって思ってる」
「そんなこと、思っているかな?ハードルがなかったら実に快適だと思うが」
「良く言うぜダンプカー。それじゃ物足りないくせに」
「何だダンプカーって。俺はそんなに勝気でも元気でもないさ」
「おまえが勝気でも元気でもないなら、
そうである人間なんてこの世にほとんどいないことになるが?」
「ほー、俺はそんなか」
「そんなだよ。おまえがそうでないのなら、世の中の9割は覇気のない人間ばかりだろう。
なぁ、当たってるだろ?」
「・・それなら藤真だって、そうだろ?」
「何が?」
「”超えるハードルのない仕事なんて、まっぴら”だと思っている」
「どうかな・・俺は、”誘惑のない遊びなんてつまらない”と思うタイプかな」
「何だそれは。意味がわからん」
「わかってもらおうと思って話してない・・・ってこんな、話してる場合じゃないだろ」
「ああ・・ところでおまえ、何時に帰る?」
「え?どうかな今日は・・・23時コースかな」
「送ってってやる」
牧は、車通勤である。藤真は電車通勤だ。
「え、いいよ。おまえ帰るの遅くなるだろ」
「俺のストレス解消方法の1つがドライブだって知ってるだろ?溜まってるんだ。付き合えよ」
「・・・んー、まぁ、そういうことなら世話になろうかな」
「おまえの好きな”緑のゴルゴ”ではないが、許せよ」
「むっ!そういうこと言うなら、もう乗ってやんない」
「はっはっは!・・・悪かった。機嫌を直せ」


――高校時代の終わりのことだ。
牧はバスケの合間を縫って車校に通い、念願の運転免許を取得した。
とにかく運転したくて仕方なくて、でもひとりで乗っているのも何なので・・・
と思った時。1番に頭に浮かんだのは何故か
バスケに明け暮れた高校3年間、
神奈川の双璧と称され続けた、自分の片割れの藤真だった。

思い立った朝にいきなり電話をして、本人が家にいるのを確認すると早速出かけて行った。
藤真の実家までは、車で45分というところだった。

『すごいなこの車』
藤真は開口一番、そう言った。
『俺が着いたの、窓から見てたのか?』
『エンジン音がうるさいから、わかった。この車、おまえの?』
『大学祝いに親に買ってもらった』
『さすがだな・・左ハンドル・・・外車じゃないか。何より、色が良い』
『色?』
『翔陽グリーン』
『・・・紫はなかったんだ』
『だからってグリーンを選ぶなんて。今からでも、ウチ(翔陽)来るか?』
『俺らもう、卒業だろ』

そう、海南大附属のカラー、紫という選択肢がないからといって、
翔陽のカラーの緑を選ぶ理由にはならなかった。
(車の中で緑色のボディは間違いなく少数派だろう)
牧は緑色が取り立てて好きなわけではなかったし・・それこそ選ぶ理由はなかったはずだが・・・
今思うともしかしたら、車を選ぶときから牧は藤真を意識していたのかもしれなかった。

助手席に藤真を乗せて、発進した。当てなど特にないが、
藤真が海を観たいというので、海沿いへ向かった。

『後でちょっと俺にも運転させてくれ』
『おまえ、免許ないだろ』
『バレた?』
『バレるだろ』
『これ、なんていう車?』
『ボルボのV70』
『ふーん。物騒な名前の車だな』
『物騒?』
『狙撃されそう』
『は?』
『だってゴルゴって言うんだろ、この車』

・・・あの時は、冗談でも言っているのかと思ったが。
藤真は、至って真面目だった。ボルボを知らず、おまけにゴルゴと聞き間違えたのだ。

車内ではしばらくの沈黙が起き、勘違いの確認作業と訂正が行われ・・・
そこから牧が爆笑、藤真が赤面、そして拗ねる・・というギャグ漫画のような時間が流れた。

・・牧の頭に、あの頃がどんどんフラッシュバックする。
あの後、海岸通りに出て・・
藤真は隣で、まだゴルゴの言い訳をしていて・・・
『おまえだって勘違いしたこと、あるだろ?例えば・・そう!
相撲の大鵬(たいほう)って、大砲だって思ってなかったか?』
だとかなんとか、さらに墓穴を掘って牧を呆れさせた。

・・そうこうしているうちに思い出したことがあり・・・
『あ、そういえばほらあいつ、たまにこの辺りで釣りしてるらしいぜ。
この辺でロードワークするうちの後輩が言ってたんだ』――という言葉に藤真が
窓の外を見ながら 『ふーん』 と興味もなさそうに発し、それでもしばらく走っていると
外を指さして短く、でもはっきりと 『あ』 と言った。

そう、さっき話題に出ていた張本人が、そこで本当に釣りをしていたのだ。
まだ寒い、春が訪れる前の海だった。

あの時のあいつ・・・試合の時と変わらないルックスで・・・
でも、いくらかのんびりとしていて・・いや、のんびりと言うよりは、飄々としていたのか・・・。


「俺は、車に興味ないんだよ」
・・・藤真の声で、牧は我に返った。
そうだ。あの時の唐突なドライブから、もう8年も経った。
2人は、学生ではなくなり、お互い社会人になった。
それでも、牧は今、藤真と一緒にいる。

・・・高校や大学で、一緒にプレーしたいと思ったこともあった。
その夢が叶う事がないことを、知りながら。
藤真は、大学ではバスケをやらなかったし、他県に行ってしまったので、会うことすらなかった。。
実現しないとわかっていた。実際に、実現しなかった・・それなのに。
願望は違った形で・・時差をもって・・
まさか、会社で一緒になろうとは。
人生は、これだからわからない。

「興味がないなんて、車を仕事にしているおまえが言うな」
「車自体が好きなワケじゃない。エレキや電子回路が好きなだけさ」
「電気オタクめ」
「うるせえ」
「オタクついでに、この図面解説願えるか?」
「どれ?
「こいつだ。直でICに繋いでいない理由はなんだ?」
「ああ、これ」

藤真の解説は、わかりやすい。
高校時代、大所帯の強豪のバスケ部監督として慣らした所以なのか。
いや、初めからそういう性質を持ち合わせているに違いない。

「で、ハイからここ・・ローから・・・・って、おまえ、聞いてる?」
「ああ・・ありがとうな。よく解った」
「おまえにありがとうなんて言われる日が来るとはな」
そう言いながら、青の缶コーヒーを手にして、プルトップを開けようとする。

「あ!?おまえ、またか!?やめろよ!」
「だってガス欠なんだもん。これ、俺のガソリン」
「いい加減にしろ!身体に悪い」
「おまえ、俺の親?それとも恋人?」
「同僚だ」
「だろ?だったら言う事聞く理由ないから」
「やめとけって言ってるだろ!」
「うわっ!何する・・・あーっ!!」

藤真の手からコーヒーを奪って、それを一気に飲み・・干そうとしたが。

「げぇ・・・にがい・・・・」
牧は、コーヒーがあまり好きではなかった。
甘いものならまだしも、苦いものは滅法苦手だ。
・・藤真が普段飲んでいたものが、こんなに苦いとは。
「おいー!?何してくれちゃってんの!あーあ、俺のコーヒー・・」
そう言いながら牧の手から恨めしそうにコーヒーを取り返す。
「あーあ、・・半分も残ってない!!」
「まずいなそれ」
「てめー!人のを飲んでおきながら!新しいの買えよ!」
「弁償ならしてやるが、新しいものは今日はもう買わせん」
「何だよ・・・おまえ俺の何なんだよ・・ちぇっ」

藤真は不満そうに言いながらも、そのコーヒーの残りを両手で大事そうに包み込み、
妙に赤い舌先で、まさに先ほど牧が口をつけた部分を猫のように未練がましく舐めた。

間接キスー・・・・
そんな、小学生のような多感な考えが、牧の頭を過る。

「・・何で俺が牧と間接キスしなきゃならんのよ」
その牧の思考を見抜いたかのように、藤真が一層不満の声を漏らして。
そして・・一気にコーヒーの残りを飲み干したと思ったら。
・・自席のデスクに背筋を伸ばして座ると、
キーボードをすごい速さで打ち出した。
そう、コーヒーの事などすでになかったように・・
それは早々と、仕事に没頭していった。

・・牧もその姿に触発され、ひとつ ほっ と溜め息をつくと
先ほど藤真がしたように、デスクに背筋を伸ばして座り直す。
そして・・・報告書の作成に戻っていく。

これが終われば藤真と一緒に夜の帰宅を兼ねたドライブだ。
・・とりあえず、この仕事の結果は明日に持ち越しだ。

藤真がさっき言った言葉を、頭で呪文のように反芻する。
噛みしめるように、自分自身に言い聞かす。

『明日までまだチャンスはあるんだ。そんな弱気な顔すんなよ』

さすがは藤真。

誰よりずっと、
自分を鼓舞する言葉と、タイミングを知っている。

誰かの手のひらの上で転がされる人生なんて、まっぴらだ。
だが、もしその誰かをどうしても選ばなくてはいけないのなら・・・。

――迷わず藤真を選ぶだろうな。

できればこれからもずっと・・
俺が何かに迷っても・・惑わされても・・俺の中だけの未来でも・・

おまえには、きっと正解が透けて見えてしまうんだろ?

だから、俺を見失わないでくれ。見守っていてくれ。俺の道を、照らしてくれ。

彼の手のひらは、なかなか居心地が良い。

・・・牧はキーボードを打ちながら、
思わず微笑んでいた。




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な が い!!!!!!
燃え尽きそうなくらい書きました。ていうか、燃え残ってカサコソしてます。
ここまで見てくだすった方いらしたらありがとうございますー!!
これは、読む方も相当大変ー!!

BGMは以下。

嵐の迷宮ラブソング。
前世からの縁、みたいのを牧藤でやってほしい。
あと、どちらかが迷った時に片方を道しるべにして進んで行ける・・とか。理想の夫婦ww

capsulの Can I Have A Word。
シリアスなのに力が抜けて大人可愛い感じが、牧藤。

※capsule・・・音楽プロデューサーである中田ヤスタカと、ボーカルのこしじまとしこによる音楽ユニット。
ジャンルはハウス、エレクトロ、テクノポップ、エレクトロニック。
作曲や演奏、アレンジ、エンジニアリングなどボーカル以外の全てを担当する中田ヤスタカは
Perfume、きゃりーぱみゅぱみゅにも楽曲提供している。

2013.04.07


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